逐語訳正信念仏偈依釈段注釈

釈迦・龍樹・天親(世親)・曇鸞・道綽・善導・源信・源空(法然)・親鸞

釈迦

釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀ごろの北インドの人物で、仏教の開祖である。


シャーキャ(サンスクリット語: शाक्य, Śākya)は、元来、釈迦の出身部族であるシャーキャ族またはその領国であるシャーキャ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキャを漢訳したものであり、旧字体では釋迦である。


シャーキャムニ(サンスクリット語: शाक्यमुनि, Śākyamuni)はサンスクリット語で「シャーキャ族の聖者」という意味の尊称であり、これを漢訳した釈迦牟尼(しゃかむに)をさらに省略して「釈迦」と呼ばれるようになった。


釈迦の本名はゴータマ・シッダッタ(パーリ語: Gotama Siddhattha)またはガウタマ・シッダールタ(サンスクリット語: गौतम सिद्धार्थ, Gautama Siddhārtha)であり、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である。


ゴータマはアンギーラサ族(パーリ語: aṅgīrasa)のリシのガウタマの後裔を意味する姓(ゴートラ)であり、この姓を持つ一族のヴァルナはバラモンである。したがって、クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がゴータマであることは不可解であり、「先祖が養子だった」など諸説ある。


ブッダ(サンスクリット語: बुद्ध, buddha)は、「悟った人」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は仏陀、旧字体では佛陀である。「仏教」という名称や「仏像」などの呼称はこの尊称に由来する。他方で、タターガタ(サンスクリット語: तथागत, tathāgata)は、「そのように行きし者」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は音写の多陀阿伽度と意訳の如来があり、釈迦如来ともいう。バーガヴァーン(英語版)(サンスクリット語: भगवान्, Bhagavān)は「この世で最も尊い」を意味する釈迦の尊称で、漢訳は世尊である。


仏教ではこれらの呼称・尊称と敬称を組み合わせて、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼如来としたり、またそれらを省略して、釈迦尊、釈尊や「仏様」、「お釈迦様」と呼ぶ。


生涯


釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。


おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、日本のインド哲学・仏教学の権威であった中村元はパーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。


しかし、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多く、歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。


釈迦はインド大陸の北方にあった十六大国時代の一つコーサラ国の部族シャーキャ族の出身であるのは確実で、釈迦自身が、パセーナディ王とのやりとりの中でシャーキャ族をコーサラ国の住民であると語っている。


生没年


まず釈迦の没年の確定についてアショーカ王の即位年を基準とするが、仏滅後何年がアショーカ王即位年であるかについて、異なる二系統の伝承のいずれが正確かを確認する術がない。釈迦に限らず、インドの古代史の年代確定は難しい[6]。日本の宇井伯寿や中村元は漢訳仏典の資料に基づき(北伝)、タイやスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国はパーリ語聖典に基づいて(南伝)釈迦の年代を考え、欧米の学者も多くは南伝を採用するが、両者には百年以上の差がある。

なお、『大般涅槃経』等の記述から、釈迦は80歳で入滅したことになっているので、没年を設定すれば、自動的に生年も導けることになる。

主な推定生没年は、
紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝(上座部仏教)説
紀元前566年 - 紀元前486年 : 北伝「衆聖点記」説
紀元前466年 - 紀元前386年 : 宇井説
紀元前463年 - 紀元前383年 : 中村説

等があるが、他にも様々な説がある。


誕生から青年期


十六大国時代のインド(紀元前600年)
釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。2人の間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、その7日後に死んだ。


誕生に関して「釈迦はマーヤーの脇の下から生まれた」という話と、「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた」という伝説とがある。


シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったことから、プラジャーパティーもシュッドーダナの妻だった可能性がある。


釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。


なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタやウパヴァーナを生んだという説もある。


出家


当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。


釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、「四門出遊」の故事がある。

ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。


長男のラーフラが生まれた後、29歳の時に、夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。


次にアーラーラ・カーラーマのもとを訪れると、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。


次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。


五比丘


そしてウルヴェーラー(ヒンディー語版)の林へ入ると、父のシュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて5人の沙門(五比丘)を同行させた。そして出家して6年の間、苦行を積んだ。減食、断食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、五比丘は釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてワーラーナシーのサールナートへ去った。


悟り


そこで35歳の釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ガヤー地区(英語版)のほとりを流れるリラジャン川(英語版)で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラが現れ、この妨害が丸1日続いたが、釈迦はついにこれを退け(降魔)、悟りを開いた(正覚)。


仏教ではこれを「降魔成道」といい、この日を記念して「成道会」を行うようになった。また、ガヤー地区は、釈迦が悟ってブッダになったことから、ブッダガヤと呼ばれれて巡礼の対象となった。


この後7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「法 (仏教)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。


ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五比丘に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。


ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五比丘に対して、法の方法論、四諦と八正道を彼らに実践的に説いた。これを初転法輪という。この五比丘は、当初は釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得たので、釈迦は喜んだ。法を説き終えて、釈迦は「世に6人の阿羅漢あり。その1人は自分である。」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。


教化と伝道


釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人(三迦葉)が仏教に改宗した。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いてため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。


釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。


釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ピンピサーラは竹林精舎を教団に寄進した。このころシャーリプトラ、マウドゥガリヤーヤナ、倶絺羅、マハー・カッサパらが改宗した。


以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。



これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。


またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。

このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。


死までの1年間 最晩年の記録


釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、死ぬ前の1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。


シャーキャ国の滅亡


涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになった。


このプラセーナジットの留守中、プラセーナジットの王子ヴィルーダカが挙兵して王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。


ヴィルーダカは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水または落雷によって死んだ。


釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。


自灯明・法灯明


釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(パ:ambalaTThika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。


釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。 次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。


次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。 この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。


この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

“ 比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。 ”

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。


“ だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように ”

と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

“ では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。 ”


“ 阿難よ、このようにして、比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである ”

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。


入滅 涅槃
やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた。


托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigaama)、アンバ村 (ambagaama)、ジャンブ村 (jaambugaama)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。


釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国のクシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで死んだ。仏教ではこの死を入滅、釈迦の入滅を仏滅という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。


死後


釈迦の死後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

その八大国とは、
1.クシナーラーのマッラ族
2.マガダ国のアジャタシャトゥル王
3.ベーシャーリーのリッチャビ族
4.カビラヴァストフのシャーキャ族
5.アッラカッパのプリ族
6.ラーマ村のコーリャ族
7.ヴェータデーバのバラモン
8.バーヴァーのマッラ族

である。


弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。

龍樹

龍樹(りゅうじゅ、梵: नागार्जुन 、Nāgārjuna、テルグ文字: నాగార్జున, チベット語: ཀླུ་སྒྲུབ、シンハラ語: නාගර්පුන කොණ්ඩේ)は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。(150 – 250 年頃)


「龍樹」とは、サンスクリットの「ナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。別訳に龍勝・龍成がある。


大乗仏教中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称される。浄土真宗の七高僧の第一祖とされ「龍樹菩薩」、「龍樹大士」と尊称される。


なお、龍猛 (りゅうみょう、Nāgāhvaya、別訳 龍叫) は、密祖(密教の祖)とされ真言宗では真言八祖の1人である。長らく龍樹と同一視されてきたが、諸説あるもののおそらくは、6世紀ごろの別人である。


龍樹は、南インドのヴィダルバ(英語版)の出身(ただし一説にこれは龍猛の出身地であり龍樹の出身地は不明[2])のバラモンと伝えられ、幼い頃から多くの学問に通じた。サータヴァーハナ朝の保護の下でセイロン、カシミール、ガンダーラ、中国などからの僧侶のために院を設けた。この地(古都ハイデラバードの東 70 km)は後にナーガールジュナ・コーンダ(丘)と呼ばれる。


当時、勃興していた大乗仏教運動を体系化したともいわれる。ことに大乗仏教の基盤となる『般若経』で強調された「空」を、無自性に基礎を置いた「空」であると論じて釈迦の縁起を説明し、後の大乗系仏教全般に決定的影響を与える。このことにより龍樹は「大乗八宗の祖」として仰がれている。


彼の教えは、鳩摩羅什によって中国に伝えられ、三論宗が成立。また、シャーンタラクシタによってチベットに伝えられ、ツォンカパを頂点とするチベット仏教教学の中核となる。8世紀以降のインド密教においても、龍樹作とされる『五次第』などの多数の文献が著された。日本には三論宗が伝来したものの衰退してしまい、この教義を中心に据える特別な流派はない。しかし、大乗仏教のほとんどの宗派は龍樹を重要な存在とみなし、「八宗の祖」と呼び崇めている。


生涯


インド原典で伝わるナーガールジュナ伝が存在しないため史学的に厳密な生涯は不詳であるが、鳩摩羅什訳と伝えられる『龍樹菩薩伝』などによって生涯の概要を窺い知る事ができる。無論、神秘主義者達による後世のフィクションが多いためそれをそのまま受け取る事は出来ないが、当時の人々が龍樹をどのように伝えていたかを知る上で重要な資料であると考えられている。


龍樹菩薩伝の伝説は以下のとおりである。この伝説は学者によっては鳩摩羅什作とも主張されており、真偽のほどは定かではない(この他にも諸伝がある)。



天性の才能に恵まれていた龍樹はその学識をもって有名となった。龍樹は才能豊かな3人の友人を持っていたが、ある日互いに相談し学問の誉れは既に得たからこれからは快楽に尽くそうと決めた。彼らは術師から隠身の秘術を得、それを用い後宮にしばしば入り込んだ。100 日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた。この事態に驚愕した王臣たちは対策を練り砂を門に撒き、その足跡を頼りに彼らを追った衛士により3人の友人は切り殺されてしまった。しかし、王の影に身を潜めた龍樹だけは惨殺を免れ、その時、愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、もし宮廷から逃走することができたならば出家しようと決心した。


事実、逃走に成功した龍樹は山上の塔を訪ね受戒出家した。小乗の仏典をわずか 90 日で読破した龍樹は、更なる経典を求めヒマラヤ山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた。これを学んだ後、彼はインド中を遍歴し、仏教・非仏教の者達と対論しこれを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないところがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えた。


しかしマハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の龍宮に連れて行き大乗仏典『華厳経』を授けた。龍樹は 90 日かけてこれを読破し、深い意味を悟った。


龍樹は龍によって南インドへと返され、国王を教化するため自ら応募して将軍となり、瞬く間に軍隊を整備した。王は喜び「一体お前は何者なのか」と尋ねると、龍樹は「自分は全知者である」と答え、王はそれを証明させるため「今、神々は何をしているのか」と尋ねたところ、龍樹は神通力を以って神々と悪魔(阿修羅)の戦闘の様子を王に見せた。これにより王をはじめとして宮廷のバラモン達は仏教に帰依した。


そのころ1人のバラモンがいて、王の反対を押し切り龍樹と討論を開始した。バラモンは術により宮廷に大池を化作し、千葉の蓮華の上に座り、岸にいる龍樹を畜生のようだと罵った。それに対し龍樹は六牙の白象を化作し池に入り、鼻でバラモンを地上に投げ出し彼を屈服させた。


またその時、小乗の仏教者がいて、常に龍樹を憎んでいた。龍樹は彼に「お前は私が長生きするのはうれしくないだろう」と尋ねると、彼は「そのとおりだ」と答えた。龍樹はその後、静かな部屋に閉じこもり、何日たっても出てこないため、弟子が扉を破り部屋に入ると、彼はすでに息絶えていた。


龍樹の死後 100 年、南インドの人たちは廟を建て、龍樹を仏陀と同じように崇めていたという。


龍樹の空理論


この「空」の理論の大成は龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。なお、伝統的に龍樹の著作とされるもののうち『中論(頌)』以外に、近代仏教学において龍樹の真作であるとの見解の一致が得られている作品はない。


龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している)


さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこのことから「無自性空」とも呼ばれる。


しかし、空である現象を人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に知覚するということだけではなく、概念や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。


この説を、既成概念を離れた真実の世界と、言語や概念によって認識された仮定の世界を、それぞれ第一義諦 (paramārtha satya) と世俗諦 (saṃvṛti-satya) という二つの真理に分ける。言葉では表現できない、この世のありのままの姿は第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは世俗諦であるとする、二諦説と呼ばれる。


無我説を固定化してしまった結果として主体の存在概念が捉えられなくなっていた当時の仏教の思潮を、龍樹は「無」と「有(有我説)」の中道である「空」(妙有)の立場から仏陀の本来の主旨に軌道修正したということである。

天親(世親)

天親とは、世親の古訳。
世親(せしん、वसुबन्भु vasubandhu 300 - 400年頃)は、古代インド仏教瑜伽行唯識学派の僧である。世親はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の訳名であり、玄奘訳以降定着した。それより前には「天親」(てんじん)と訳されることが多い。「婆薮般豆」、「婆薮般頭」と音写することもある。


唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、地論宗・摂論宗・法相宗・浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称される。


世親の伝記については、真諦訳『婆薮槃豆法師伝』、玄奘『大唐西域記』やその弟子・基の伝える伝承、ターラナータ『仏教史』中の伝記などがある。


『婆薮槃豆法師伝』によれば、世親は仏滅後900年にプルシャプラ(現在のパキスタン・ペシャーワル)で生まれた。三人兄弟の次男で、実兄は無著(アサンガ)、実弟は説一切有部のヴィリンチヴァッサ(比隣持跋婆)。兄弟全員が世親(ヴァスバンドゥ)という名前であるが、兄は無著、弟は比隣持跋婆という別名で呼ばれるため、「世親」という名は専ら本項目で説明する次男のことを指す。


初め部派仏教の説一切有部で学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄・無著の勧めによって大乗仏教に転向した。無著の死後、大乗経典の註釈、唯識論、諸大乗論の註釈などを行い、アヨーディヤーにて80歳で没した。


世親の伝記に関する諸伝承は、世親が説一切有部から大乗(唯識派)へと転向したという点で一致する。しかし近年、説一切有部時代に書いたとされる『阿毘達磨倶舎論』に伝える経量部説が、『瑜伽師地論』にトレースできることから、「ヴァスバンドゥの有部での得度まで否定する必要はないにせよ、彼は最初から瑜伽行派の学匠であったと仮定するほうが、はるかに合理的ではないか」という意見も出されている。

曇鸞

曇鸞(どんらん、tán-luán 476年 - 542年7月7日(不詳))は、中国南北朝時代の僧である。

中国浄土教の開祖とされる。

浄土宗では、「浄土五祖」の第一祖とされる。

浄土真宗では、七高僧の第三祖とされ「曇鸞大師」・「曇鸞和尚」と尊称する。


五台山の近く雁門(現在の中国、山西省代県)の生まれ。生没年は不明だが、おおよそ北魏後半から北斉時代の人と思われる。


出家して、龍樹系の四論(『中論』、『十二門論』、『大智度論』、『百論』)や『涅槃経』の仏性義を学んだ。ところが『大集経』(だいじっきょう)の注釈の最中に病に倒れ、不老長寿の術を茅山の陶弘景について学び「仙経」を得て帰る途中、洛陽で菩提流支に出会い、仏教にこそ不死の教えあると諭され、『観無量寿経』を授けられた。


そこで、曇鸞は「仙経」を焼き捨てて、浄土教に入り研鑚に勤め、并州の大巌寺に住し、後に石壁の玄中寺に入り、さらに汾州平遥山の遥山寺に移って没した。勅によって汾州西秦陵の文谷に葬られた。


『無量寿経優婆提舎願生偈註』を著す。一般には、略して『浄土論註』、『往生論註』と呼び、『論註』とも呼ぶ。天親(世親)撰述の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』)の註釈書である。正確には、『浄土論』自体が『無量寿経』の注釈書なので、再註釈にあたる。末法無仏の時代には、他力の信心による浄土往生による成仏以外にないと説いたもので、ことに下巻の末尾にすべてが他力のはたらきであると明快に論証する。


このため、続く道綽・善導、さらに日本の源信・法然・親鸞はこの論書によって論を進めている。ことに親鸞の教義の根幹を成している。

道綽

道綽(どうしゃく、Dao-chuo)〈陳:天嘉3年/北周:保定2年(562年)
- 貞観19年(645年)4月27日〉は、唐代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧侶である。俗姓は衛氏。「西河禅師」とも。

浄土宗では、「浄土五祖」の第二祖とされる。

浄土真宗では、七高僧の第四祖とされ「道綽襌師」・「道綽大師」と尊称される。


陳:天嘉3年/北周:保定2年(562年)、并州汶水に生れる。(生誕地は、并州晋陽とも。)

14歳のときに出家し、『涅槃経』に精通。

30歳を過ぎて慧瓚(えさん)に師事し、戒律と禅定の実践に励む。


大業5年(609年)、48歳のとき玄中寺の曇鸞の碑文を見て感じ、自力修行の道を捨て、浄土教に帰依し同寺に滞在する。出家者、在家者のために『観無量寿経』を200回以上講義。亡くなるまで念仏を日々7万遍称えたといわれる。念仏を小豆で数えながら称える「小豆念仏」を勧める。(称名念仏)


貞観15年(641年)、善導が、晋陽(現:山西省太原市)にいた道綽をたずね、師事した。そして道綽は没するまで、『観無量寿経』などの教えを授けた。 貞観19年(645年)4月27日、85歳にて逝去。

善導

善導(ぜんどう、ピンイン:sh`an-d~ao)〈大業9年(613年)- 永隆2年3月14日(681年4月7日。3月27日(4月20日)とも)〉は、中国浄土教(中国浄土宗)の僧である。


「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する。姓は朱氏。「終南大師」、「光明寺の和尚」とも呼ばれる。

浄土宗では、「浄土五祖」の第三祖とされる。

浄土真宗では、七高僧の第五祖とされ「善導大師」・「善導和尚」と尊称される。


同時代の人物には、『三論玄義』の著者で三論宗を大成させた吉蔵や、訳経僧で三蔵法師の1人である玄奘がいる。


開皇17年(597年)、天台宗の開祖・智顗が死去する。

大業5年(609年)、道綽が浄土教に帰依する。

大業9年(613年)、善導、泗州(現:安徽省)、あるいは臨淄(現:山東省)に生まれる。幼くして、出家し諸所を遍歴した後、長安の南の終南山悟真寺に入寺する。


貞観15年(641年)、晋陽(現:山西省太原市)にいた道綽をたずね、師事した。そして貞観19年(645年)に道綽が没するまで、『観無量寿経』などの教えを受けた。30年余りにわたり別の寝床をもたず、洗浴の時を除き衣を脱がず、目を上げて女人を見ず、一切の名利を心に起こすことがなかったという。道綽没後は、終南山悟真寺に戻り厳しい修行をおこなう。


その後長安に出て、『阿弥陀経』(10万巻)を書写して有縁の人々に与えたり、浄土の荘厳を絵図にして教化するなど、庶民の教化に専念する。一方で、龍門奉先寺の石窟造営の検校(けんぎょう)を勤めるなど、幅広い活動をする。長安では、光明寺・大慈恩寺・実際寺などに住する。


永隆2年3月14日(681年4月7日。3月27日(4月20日)とも)、69歳にて逝去。終南山の山麓に、弟子の懷惲らにより、崇霊塔(善導塔)と香積寺が建立された。高宗皇帝寂後、寺額を賜りて光明と号すようになった。


善導は日本の法然・親鸞に大きな影響を与えた。

法然が専修念仏を唱道したのは、善導の『観経正宗分散善義』巻第四(『観無量寿経疏』「散善義」)の中の、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文からである。

源信

源信(げんしん)(天慶5年(942年) - 寛仁元年6月10日(旧暦) (942年- 1017年7月6日〈新暦〉)は、平安時代中期の天台宗の僧。『往生要集』著者。恵心僧都(えしんそうず)と尊称される。


浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称される。


(以下年齢は、数え年。日付は、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)。)


天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻に生まれる。幼名は「千菊丸」。父は卜部正親、母は清原氏。

天暦2年(948年)、7歳の時に父と死別。


天暦4年(950年)、信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学ぶ。

天暦9年(955年)、得度。


天暦10年(956年)、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。そして、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。


母の諫言の和歌 - 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき  まことの求道者となり給へ」


永観2年(984年)11月、師・良源が病におかされ、これを機に『往生要集』の撰述に入る。永観3年(985年)1月3日、良源は示寂。

寛和元年(985年)3月、『往生要集』脱稿する。


寛弘元年(1004年)、藤原道長が帰依し、権少僧都となる。

寛弘2年(1005年)、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退する。

長和3年(1014年)、『阿弥陀経略記』を撰述。

寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂。臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅した。

源空(法然)

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。


 はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。


謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。

大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚され、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師である。


『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。

浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。


生涯



長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国と、母・秦氏君(はたうじのきみ)との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。


『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。


その後、天養2年(1145年)]、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。


法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)や醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)などに遊学した。


これに対して、『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修業をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山の叡空の下で修業中に父の殺害を知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師・法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている。


浄土宗の開宗


承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りて東山吉水に住んで、念仏の教えを広めた。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。


養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じた。これを「大原問答」と呼んでいる。

建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。


法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。


延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難


元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。


念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。


法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。


讃岐配流と晩年


讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。


承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に入り、吉水にもどった。


建暦2年(1212年)1月25日、京都東山大谷(京都市東山区)で死去した。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は現在の知恩院の法然上人御廟の場所に建てられた。


法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、式子内親王・九条兼実・宇都宮頼綱らが著名である。


死後・嘉禄の法難


法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院)に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。


思想と教え


一般に、法然は善導の『観経疏』によって称名念仏による専修念仏を説いたとされている。ここでは顕密の修行のすべてを難行・雑行としてしりぞけ念仏を唱える易行のみが正行とされた 。


法然の教えは都だけではなく、地方の武士や庶民にも広がり、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まった。兼実の求めに応えて、その教義を記した著作が『選択本願念仏集』である。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人の救済に専念する姿勢を示した。


もっとも、こうした法然の教えは自らを三学非器の凡夫とする強い意識から、自らの娑婆世界での解脱を諦めて浄土往生を志すようになった。だが、既存の宗派のやり方では往生は極めて難しいと考えて確実に往生できる教行を求め、その結果として専修念仏にたどり着くことになる。


法然の思想は凡夫である自らの往生のために由来するものであって、他者の化導や新しい教学の成立を企図していた訳ではなかった。法然を民衆を化導者とする描写は法然自身の著作よりも弟子の所説、特に空阿や信空の言行・所説の影響によるところが大きいとされている。


専修念仏の提唱


『選択本願念仏集』で法然は、各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから自らの見解を述べている。法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。


著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊の説かれた聖教のなかから自らの機根に合うものを選びとり、行じていく事が本義である事を説いた。加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門とそれ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いている。


末法の世に生まれた凡夫にとって、聖道門の修行は堪え難く、浄土門に帰し、念仏行を専らにしてゆく事でしか救われる道は望めない。その根拠としては『仏説無量寿経』にある法蔵菩薩の誓願を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある『仏説阿弥陀経』を示し、他の雑行は不要であるとしている。


もっとも、法然が浄土門を勧めたのは、自身を含めた凡夫でも確実に往生できる行であったからであって、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は困難ではあるが甚だ深いものであるとし、聖道門を排除・否定することはなかった。


また、『無量寿経釈』では、『無量寿経』においては仏土往生のために持戒すべきことが説かれているが、専らに戒行を持していなくても念仏すれば往生が遂げられると主張している。ただし、法然は持戒を排除したのではなく、持戒を実際に行うことは大変難しく、法然自身でもそれを貫くのは困難であると考えていたからこそ、自分も含めた凡夫が往生するためには無理な持戒よりも一心に念仏を唱えるべきであると唱えたのである。


それは、『無量寿経釈』においても分際に従って1つでも2つでも持戒をしている者が一心に念仏すれば必ず往生できると唱えていることからも分かる。なお、法然自身による自分の持戒は不十分であるとする自覚とは反対に世間では法然を清浄持戒の人物と評価されていた。九条兼実が娘の任子の受戒のための戒師を決める際に、法然が戒律のことを良く知っている僧侶であるとして彼を招聘している(『玉葉』建久2年9月29日条)。


三心の信心


法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは『仏説観無量寿経』に説かれていて、『選択集』・『黒谷上人語灯録』にもみられる語である。「三心」とは「至誠心」(誠実な心)・「深心」(深く信ずる心)・「廻向発願心」(願往生心)のことである。


至誠心疑うことなくこころから阿弥陀仏を想い浄土往生を願うこと。深心疑いなく深く信じること。次の二つがあげられる。一つは、自身が罪悪不善の身でいつまでも輪廻を繰り返す、救われ難い身であること、二つには、そのような罪深き身である自分を阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」と深く信じてとなえれば必ず救ってくれることである。この二つを「二種深心」といって信心の要とした。廻向発願心一切の善行の功徳を浄土往生にふりむけ、極楽浄土に生まれたいと願う心。


三心は念仏者の心得るべき根幹をなすもので、大切なものとされている。三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。


他力と自力については、他力の念仏を勧めている。自力は聖人にしか行えないもので千人に一人、万人に一人二人救われかどうかであるとし、対して、他力の念仏は、名を称えた者を救うという阿弥陀仏の四十八願を根拠として必ず阿弥陀仏が救いとってくださるとし、三心をもって念仏を行うべきとしている。


このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、民衆に凡夫であるということをまず認識させ、その上で浄土に往生するためには、専修念仏が一番の道であるとして勧め、さまざまな行のなかから念仏を行として選択すべきだとしている。

親鸞

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日)は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。


法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。


独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。


浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。


生涯


親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多く、研究中であり諸説ある。また本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、弟子が記した書物(『御伝鈔』など)によるところが多い。それらの書物は、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。


時代背景


永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる。
保元元年(1156年)7月9日、保元の乱起こる。
平治元年(1159年)12月9日、平治の乱起こる。

貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。



誕生 


承安3年(1173年)4月1日(グレゴリオ暦換算 1173年5月21日)に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進 日野有範(ありのり)の長男として誕生する]。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光女」(きっこうにょ))とされる。幼名は、「松若磨」、「松若丸」、「十八公麿」。


治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。


治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)

戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。


得度

治承5年(1181年)9歳、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴」(はんねん)と称する。

伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。


出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。


建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。


建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、

「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

意訳 - 「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」という偈句(「「女犯偈」」)に続けて、

「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」

の告を得る。


この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。


入門


法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう) の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる。


『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる。


『親鸞聖人正明伝』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年については「建仁辛酉 範宴二十九歳 三月十四日 吉水ニ尋ネ参リタマフ[10]」、「建仁辛酉三月十四日 既ニ空師ノ門下ニ入タマヘドモ(中略)今年四月五日甲申ノ夜五更ニ及ンデ 霊夢ヲ蒙リタマヒキ」と記されている。

『恵信尼消息』では、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、(中略)また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、まゐりてありしに」と記されている。


元久元年(1204年)11月7日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる。


元久2年(1205年)4月14日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる。


元久2年(1205年)閏7月29日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している。ただし、改名した名について親鸞自身は言及していない。


改名について


「善信」実名説「綽空」から「善信」(ぜんしん) への改名説。「親鸞」の名告りはそれ以降とする説。覚如の『拾遺古徳伝』と、それを受けた存覚の『六要鈔』を論拠とする。「善信」房号説宗教学者の真木由香子が『親鸞とパウロ』(教文館、1988年)において主張し、真宗学者の本多弘之[注釈 18]らが支持する説。「善信」は法名ではなく房号で、法然によって「(善信房)綽空」から「(善信房)親鸞」とする説。ここでいう房号とは、「官僧」から遁世した「聖(ひじり)」や、沙弥などの僧が用いた通称のこと。親鸞が在世していた当時には実名敬避の慣習があり、日常生活で実名の使用を避けるために呼び習わされた名のこと(参考文献…『親鸞敎學』95号)。「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「綽空」から「親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。「善信房」の房号は、唯円の『歎異抄』、覚如の『口伝鈔』・『御伝鈔』に見て取れる。


妻帯


妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在する推論である。


法然の元で学ぶ間に、九条兼実の娘である「玉日」と京都で結婚したという説。
「玉日」について、歴史学者の松尾剛次[19]、真宗大谷派の佐々木正、浄土宗西山深草派の吉良潤、哲学者の梅原猛は、『親鸞聖人御因縁・伝存覚『親鸞聖人正明伝』・五天良空『親鸞聖人正統伝』の記述を根拠に「玉日実在説」を主張している。対して、日本史学者の平雅行は、『親鸞聖人御因縁』・『親鸞聖人正明伝』・『親鸞聖人正統伝』が時の天皇を誤認していることや、当時の朝廷の慣習、中世の延暦寺の実態などの知識を欠いた人物の著作だとし、玉日との結婚は伝承であると再考証している。


法然の元で学ぶ間に、越後介も務め越後に所領を持っていた在京の豪族三善為教の娘である「恵信尼」と京都で結婚したという説。
「恵信尼」については、大正10年(1921年)に恵信尼の書状(「恵信尼消息」)が西本願寺の宝物庫から発見され、その内容から実在が証明されている。京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。 玉日と恵信尼は同一人物で再婚ではないとする説。

法然の元で学ぶ間に、善鸞の実母と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の在庁官人の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した平雅行は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族三善為教の娘ではありえないとしている。また天文10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く史料として価値が低いとしている。


当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。


親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。


師弟配流


事件の経緯は承元の法難を参照。


元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。

建永2年[注釈 24](1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。

この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ[注釈 25][注釈 26]、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。

親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)[注釈 27] と名告リ、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。)

承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。

建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて[注釈 28]勅免[注釈 29]の宣旨が順徳天皇より下る。


同月、法然に入洛の許可が下りる。

親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に[注釈 30]に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。


建暦2年(1212年)1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。

赦免後の親鸞の動向については二説ある。

1つは、親鸞は京都に帰らず越後にとどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わないと知ったことや、子供が幼かったことが挙げられる。

対して、一旦帰洛した後に関東に赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派・真宗興正派の中興である了源が著した『算頭録』に「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承と位置付けいて、史実として直截に証明する証拠は何もないとしている。


東国布教


建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。

寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵[注釈 31]」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。

そして笠間郡稲田郷[注釈 32]の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵[注釈 33]」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる。

親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。


西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとしている。文永9年(1272年)に、この地で没したとしている。


この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。


帰京


62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。


帰京の理由確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。 天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。
弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。主著『教行信証』を、「経典」・「論釈」との校合のため。


鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。


現代と比較して、機械的伝達手段が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。望郷の念によるもの。


35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。著作活動に専念するため。


当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。妻・恵信尼の動向確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。 東国に残り、没したとする説。(西念寺寺伝)
京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。


当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。
帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。


承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、隠岐島に配流されたことによる
寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。

宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。

建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。

建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。

建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。

建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。


建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)[注釈 37]を撰述する。

建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。

 ウィキソースに「善鸞義絶状」の原文があります。

同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。


『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。

康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。

康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。

正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。


南北朝時代には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。


この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。


入滅


弘長2年(1262年[注釈 39])11月28日 (グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「善法院 」にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。

荼毘の地は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。
頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。


入滅後

報恩講

親鸞の祥月命日には、宗祖に対する報恩感謝のため「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている。