臨済録

臨済義玄(りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-867年)は中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖。 曹州南華県(山東省菏沢市)出身で俗姓は邢氏。

当初、経論を学ぶも満ち足りず、禅宗へ転向して黄檗希運に師事し、いわゆる黄蘗三打の機縁で大悟した。

その後河北省の有力軍閥である成徳府節度使王紹懿(中文、English、禅録では王常侍)の帰依を受け、真定府の臨済院に住み、興化存奬を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に臨済宗と呼ばれるようになった。

その宗風は馬祖道一に始まる禅風を究極まで推し進め、中国禅宗史の頂点を極めた。その家風は「喝」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、徳山の「棒」とならび称され、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられた。

その語録である『臨済録』(臨濟慧照禅師語録)は「語録の王」として、中国・日本で再三にわたって開版された。本書には、簡潔な描写の中に臨済の直截的な確信に満ちた姿が驚くべき臨場感をともなって活写されている。(ウィキペディアより)

上堂


上堂1-1


府主王常侍、諸官と師を請じて陞座せしむ。師、上堂、云く、「山僧(さんぞう)今日、 事已むことを獲ず、曲げて人情に順って、方にこの坐に登る。若し祖宗門下に約して大事を称揚せば、直に是れ口を開き得ず、汝が足を措く処無けん。 山僧この日、常侍の堅く請ずるを以って、那(なん)ぞ綱宗を隠さん。還た作家(さっけ)の戦将 の直下に陣を展べ旗を開くもの有りや、衆に対して証拠し看よ。」

僧問う、「如何なるか是れ仏法の大意?」。師便ち喝す。僧礼拝す。

師云く、「這箇の師僧、却って持論するに堪えたり」。

問う、「師は誰が家の曲をか唱え、宗風阿誰(たれ)にか嗣ぐ?」。

師云く、「我れ黄檗の処に在って、三度問いを発して三度打たる」。

僧擬議す。師便ち喝して、後に随って打って云く、「虚空裏に向って釘ケツ(ていけつ)し去るべからず」。

 

上堂1-2


座主(ざす)有り、問う、「三乗十二分教は、豈に是れ仏性を明かすにあらざらんや?」

師云く、「荒草曽って鋤かず」。

主云く、「仏豈に人を賺(すか)さんや」。

師云く、「仏什麼(いずれ)の処にか在る?」

主無語。

師云く、「常侍の前に対して、老僧を瞞ぜんと擬(ほっ)す。速退(しっつい)、速退。他の別人の請(しん)問(もん)を妨ぐ」。

復た云く、「この日の法筵(ほうえん)、一大事の為の故なり。更に問話の者ありや?速かに問を致し来たれ。汝(なんじ)わずかに口を開かば、 早(すで)に勿(もつ)交渉(きょうしょう)。

何を以ってか此(かく)の如くなる。見ずや、釈尊云(のたまわ)く、『法は 文字を離る、因にも属せず縁にも在らざるが故なり』と。

汝(なんじ)が信不及(しんふぎゅう)なるが為に、所以に今日葛藤(かっとう)す。恐らくは常侍と諸官員とを滞して、他(か)の仏性を昧(くら)まさん。如かず、且(しばら)く退かんには」。

喝一喝して云く、「少信根(しょうしんこん)の人、終(つい)に了日(りょうじつ)無けん。久立(きゅうりゅう)珍重(ちんちょう)」。

 

上堂2

 

師、因みに一日河府に到る。府主王常侍、師を請じて陞座せしむ。

時に麻谷(まよく)出でて問う、「大悲千手眼、那箇か是れ正眼?」。

師云く、「大悲千手眼、那箇か是れ正眼、速かに道え、速かに道え」。

麻谷師をひいて師を下らしめ、麻谷却って坐す。

師近前して云く、「不審」。

麻谷擬議す。師も亦た麻谷を曳いて下らしめ、師却って坐す。麻谷便ち出で去る。師便ち下坐す。

 

上堂3


上堂。云く、「赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」。

時に僧あり、出て問う、「如何なるか是れ無位の真人?」。師禅床を下がって把住して云く、「道(い)え道え」。

その僧擬議す。師托開して、「無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎橛(かんしけつ)ぞ」と云って便ち方丈に帰る。

 

上堂4

 
上堂、僧有り、出て礼拝す。師便ち喝す。僧云く、「老和尚、探頭(たんとう)すること莫(な)くんば好し」。

師云く、「汝什麼(いずれ)の処に落在(らくざい)すと道(い)うや」。僧便ち喝す。

又、僧有り問う、「如何なるか是れ仏法の大意?」師便ち喝す。僧礼拝す。

師云く、「汝好喝と道うや」。

僧云く、「草賊大敗す」。

師云く、「過は什麼(いずれ)の処にか在る?」 

僧云く、「再犯容さず」。師便ち喝す。


上堂4-1


是の日、両堂の首座相見、同時に喝を下す。僧、師に問う、「還(は)た賓主(ひんじゅ)有りや?」

師云く、「賓主歴然たり」。

師は「臨済が賓主の句を会せんと要せば、堂中の二首座に問取せよ」と云って便ち下座す。


上堂5


上堂、僧問う、「如何なるか是れ仏法の大意?」師、払子を竪起(じゅき)す。

僧便ち喝す。師便ち打つ。又、僧問う、「如何なるか是れ仏法の大意?」

師、亦た払子(ほっす)を竪起(じゅき)す。僧便ち喝す。師も亦た喝す。僧擬議す。師便ち打つ。

師乃(すなわ)ち云く、「大衆、夫れ法の為にする者は喪身(そうしん)失命(しつみょう)を避けず。我二十年黄檗先師の処に在って、三度仏法的的(てきてき)の大意を問うて、三度他の杖を賜うことを蒙る。蒿枝(こうし)の払著(ほっちゃく)するが如くに相似たり。如今更に一頓(とん)の棒を得て喫せんことを思う。誰人(だれびと)か我が為に行じ得ん」。

時に僧有り。衆を出でて云く、「某甲(それがし)行じ得」。

師、棒を拈(ねん)じて彼に与う。その僧接せんと擬(ほっ)す。師便ち打つ。

 

上堂6

 

上堂、僧問う、「如何なるか是れ剣刃上(けんにんじょう)の事(じ)?」

師云く、「禍事(かじ)、禍事(かじ) 」。 僧擬議す。師便ち打つ。 

問う、「ただ石室行者(あんじゃ)の碓を踏んで脚を移すことを忘却せるが如きは、什麼(いずれ)の処に向かってか去る?」

師云く、「深泉に没溺す」。師乃ち云く、「但有(すべ)ての来者は彼をキ欠せず。総(そう)に伊(かれ)が来所を識(し)る。もし与麼(よも)に来れば、恰(あたか)も失却するに似たり。与麼(よも)に来らざれば、無縄(むじょう)自縛(じばく)。一切時中、乱(みだ)りに斟酌すること莫(なか)れ。 会と不会と、都来(すべ)て是れ錯(しゃく)、分明に与麼(よも)に道う。天下の人の貶剥(へんばく)するに一任す。久立珍重」。

 

上堂7


上堂、云く、「一人は孤峰(こほう)頂上に在って、出身の路無く、一人は十字街頭に在って、亦た向背無し。那箇(いずれ)か前に在り、那箇か後に在る。維摩詰(ゆいまきつ)と作さざれ、傅大士(ふだいし)と作さざれ。珍重」。

 

上堂8

 

上堂、云く、「一人有り、劫(ごう)を論じて途中に在って、家舎を離れず。一人有り、家舎を離れて途中に在らず。那箇(いずれ)か合(まさ)に人天(にんでん)の供養を受くべき」と言って便(すなわ)ち下座す。

 

上堂9


上堂、僧問う、「如何なるか是れ第一句?」

師云く、「三要(さんよう)印開(いんかい)して朱点(しゅてん)側(そばだ)つ、未だ擬議を容れずして主賓分かる」。

問う、「如何なるか是れ第二句?」

師云く、「妙解(みょうげ)豈に無著(むじゃく)の問いを容れんや。漚和(おうわ)争(いか)でか截流(せつる)の機に負(そむ)かん」。

問う、「如何なるか是れ第三句?」

師云く、「棚頭(ほうとう)に傀儡(かいらい)を弄(ろう)するを看取せよ。抽牽(ちゅうけん)都来(すべ)て裏に人有り」。

師又云く、「一句語に須らく三玄門を具すべく、一玄門に須らく三要を具すべし。権有り用有り、汝等諸人、作麼生(そもさん)か会す?」と言って下座す。


示衆


〔示衆〕1-1


 師、晩参、衆に示して云く、「有る時は奪人不奪境、有る時は奪境不奪人、有る時は人境倶奪、有る時は人境倶不奪」。

時に僧有り問う、「如何なるか是れ奪人不奪境?」

師云く、「煦日(くじつ)発生して地に鋪(し)く錦、幼孩(ようがい)髪を垂れて白きこと糸の如し」。

僧云く、「如何なるか是れ奪境不奪人?」

師云く、「王令已(すで)に行われて天下にあまねし。将軍塞外(さいがい)に煙塵(えんじん)を絶す」。

僧云く、「如何なるか是れ人境両倶奪?」

師云く、「併汾絶信(へいふんぜっしん)、独処(どくしょ)一方」。

僧云く、「如何なるか是れ人境倶不奪?」

師云く、「王、宝殿に登れば、野老(やろう)謳歌す」。


〔示衆〕1-2


師乃(すなわ)ち云く、「今時(こんじ)、仏法を学する者は、且(しばら)く真正の見解を求めんことを要す。

若し真正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり。殊勝を求めんと要(ほっ)せざれども、殊勝自(おのず)から至る。

道流(どうる)、祇(た)だ古よりの先徳(せんとく)の如きは皆な人を出(いだ)す底の路有り。山僧(さんぞう)が人に指示する処の如きは、祇(た)だ汝が人惑(にんわく)を受けざらんことを要す。

用いんと要せば便ち用いよ、更に遅疑(ちぎ)すること莫かれ。如(い)今(ま)の学者の得ざるは病(やまい)甚(なん)の処にか在る。

病(やまい)は不自信の処に在り、汝若し自信不及(じしんふぎゅう)ならば、即便(すなわ)ち忙忙地(ぼうぼうじ)に一切の境にしたがって転じ、他(か)の万境に回換(えかん)せられて、自由を得ず。

汝若し能く念念馳求の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず。 

汝は祖仏を識(し)らんと欲得(ほっ)するや。祇(た)だ汝面前聴法底(ちょうぼうてい)是れなり。学人信不及(しんふぎゅう)にして、便(すなわ)ち外に向って馳求す。設(たと)い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終(つい)に他(か)の活(かつ)祖意(そい)を得ず。

錯(あやま)ること莫(なか)れ、諸禅徳。此の時遭(あ)わずんば、万劫千生、三界に輪廻し、好境にしたがってテッし去って、驢牛(ろご)の肚裏(ずり)に生ぜん。

道流(どうる)、山僧(さんぞう)が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処(ゆうしょ)什麼(なに)をか欠少(かんしょう)す。

六道の神光(じんこう)、未だ曽って間歇(かんけつ)せず。若し能く是の如く見得せば、祇(た)だ是れ一生無事の人なり」。

 

〔示衆〕1-3


「大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。此は是れ汝が久しく滞住する処にあらず。無常の殺鬼一刹那(せつな)の間に貴賎老少を揀(えら)ばず。

汝は祖仏と別ならざらんと要(ほっ)せば、但だ外に求むること莫れ。汝が一念心上の清浄光(しょうじょうこう)は、是れ汝が屋裏の法身仏(ほっしんぶつ)なり。汝が一念心上の無分別光は、是れ汝が屋裏の報身仏(ほうしんぶつ)なり。汝が一念心上の無差別光は、是れ汝が屋裏の化身仏(けしんぶつ)なり。此の三種の身は是れ汝即今目前聴法底(ちょうぼうてい)の人なり。

祇(た)だ外に向って馳求せざるが為に、此の功用(こうゆう)あり。経論家に拠(よ)らば、三種の身を取って極則(ごくそく)と為す。 山僧(さんぞう)が見処に約すれば、然らず。この三種の身は是れ名言(みょうごん)にして、亦た是れ三種の依なり。

古人云く、「身は義に依って立て、土は体に拠(よ)って論ず」と。 法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ光影(こうよう)なることを。大徳、 汝且(しばら)く光影(こうよう)を弄する底の人を識取せよ。これ諸仏の本源にして、一切処是れ道流が帰舎の処なり。

是れ汝が色身は、説法聴聞する解(あた)わず。脾胃肝胆(ひいかんたん)は説法聴聞する解(あた)わず。虚空は説法聴法する解(あた)わず。

是れ什麼(なに)ものか 説法聴法を解(よく)くす。汝目前歴歴底(れきれきてい)にして、一箇の形段(ぎょうだん)勿(な)くして孤明(こめい)なる、是れ這箇(しゃこ)、説法聴法を解(よく)くす。若し是(かく)の如く見得すれば、便ち祖仏と別ならず。 

但(およ)そ一切時中、更に間断莫く、触目皆な是(ぜ)なり。(ただ情生ずれば智隔たり、相変ずれば体殊(こと)なるが為に、所以(ゆえ)に三界に輪廻して、種々の苦を受く。若し山僧(さんぞう)が見処に約せば、甚深(じんじん)ならざるは無く、解脱せざるは無し」。

 

[示衆]1-4
 
「道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰(い)い、耳に在っては聞と曰(い)い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては論談し、手に在っては執捉(しっそく) し、足に在っては運奔(うんぽん)す。

本(も)と是れ一精明(せいめい)、分かれて六和合と為(な)る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧がかく説くは、意は什麼(いずれ)の処にか在る。

祇(た)だ道流が一切馳求(ちぐ)の心止むこと能(あた)わずして、他の古人の閑機境(かんききょう)に上(のぼ)るが為なり。

道流、山僧が見処を取らば、報化(ほうけ)仏頭を坐断し、十地(じゅうじ)の満心(まんしん)は猶(な)お客作児(かくさじ)の如く、等妙(とうみょう)の二覚は担枷鎖(たんかさ)の漢、羅漢辟支(らかんびゃくし)は猶(な)お厠穢(しえ)の如く、菩提涅槃は繋驢ケツ(けろけつ)の如し。

何を以ってか此の如くなる。祇(た)だ道流が三祇劫(さんぎごう)空に達せざるが為に、所以に此の障礙(しょうげ)有り。若(も)し是れ真正の道人(どうにん)ならば、終に是の如くならず。

但だ能く縁に随って旧業(きゅうごう)を消し、任運(にんぬん)に衣裳を著けて、行かんと要(ほっ)すれば即ち行き、坐せんと要(ほっ)すれば即ち坐し、一念心の仏果を希求(きぐ)する無し。

何に縁(よ)ってか此の如くなる。古人云く、『若(も)し作業(さごう)して仏を求めんと欲すれば、仏は生死の大兆なり』と」

 

[示衆]1-5


「大徳、時光惜しむべし。祇(た)だ傍家波波地(ぼうけははじ)に、禅を学し、道を学し、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め、善知識を求めて意度(いたく)せんと擬(ほっ)す。錯まること莫れ、道流、汝祇(た)だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。汝自ら返照し看よ。 古人云く、「演若達多(えんにゃだった)頭(こうべ)を失却す、求心歇(や)む処即ち無事」と。大徳、且(しばら)く平常ならんことを要す、模様を作すこと莫れ。一般の好悪を識らざる禿奴(とくぬ)有って、便即(すなわ)ち神を見鬼を見、東を指し西を画し、晴れを好み雨を好む。 是(かく)の如きの流(たぐい)、尽く須らく債(さい)を抵(いた)して、閻老(えんろう)の前に向って、熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家(こうにんけ)の男女(なんにょ)、這(こ)の一般の野狐(やこ)の精魅(せいみ)の所著(しょじゃく)を被(こうむ)って、便即(すなわ)ち捏怪(ねっかい)す。瞎ル生(かつるせい)、飯銭(はんせん)を索(もと)められる日在(あ)り」。

 

〔示衆〕2


衆に示して云く、「我れ有る時は先照後用(せんしょうごゆう)、有る時は先用後照(せんゆうごしょう)、有る時は照用同時、有る時は照用不同時。先照後用(せんしょうごゆう)は人の在る有り。先用後照は法の在る有り。

照用同時は耕夫の牛を駆(か)り、飢える人の食を奪い、骨を敲(たた)き髄を取り、痛く鍼錐(しんすい)を下す。

照用不同時は問い有り答有り、賓を立し主を立し、合水和泥(がっすいわでい)、応機接物(おうきせつもつ)す。 若し、是れ過量の人ならば、未だ挙せざる已前に向いて、撩起して便ち行かん。猶お些子(すこし)く較(たが)えり」。

 

〔示衆〕3-1


師、衆に示して云く、「道流、切(せつ)に真正の見解(けんげ)を求取して、天下に向って横行して、這の一般の精魅に惑乱せらるるを免れんことを要す。

無事是れ貴人(きにん)、但だ造作すること莫れ。祇(た)だ是れ平常なれ。汝、外に向って傍家(ぼうけ)に求過(ぐか)して脚手(きゃくしゅ)を覓(もと)めんと擬(ほっ)す。錯(あやま)り了(おわ)れり。祇(た)だ仏を求めんと擬(ほっ)するも、仏は是れ名句なり。

汝、還(は)た馳求する底を識るや。三世十方の仏祖出で来たるも、也(ま)た祇(た)だ法を求めんが為なり。如今(いま)参学の道流も也(ま)た祇(た)だ法を求めんが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば、依然として五道に輪廻す。

云(い)何(か)なるか是れ法。法とは是れ心法。心法は形無くして、十方に通貫し、目前に現用す。人は信不及(しんふぎゅう)にして、便乃(すなわ)ち名を認め句を認め、文字の中に向って仏法を意度(いたく)せんと求む。天地懸(はる)かに殊(こと)なる」。

 

〔示衆〕3-2


「道流、山僧が説法は什麼(なん)の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、浄に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ汝が真俗凡聖の与(ため)に名字を安著(あんじゃく)するにあらず。

道流、把得して便ち用いて、更に名字に著せざる、これを号して玄旨と為す。山僧が説法は、天下の人と別なり。

祇(た)だ箇の文殊普賢有って、目前に出で来って、各(おのおの)一身を現じて法を問うが如きは、わずかに和尚に咨(もう)すと道(い)わば、我れ早く弁じ了(おわ)る。老僧穏座(おんざ)、更に道流有って、来たって相見する時、我れ尽(ことごと)く弁じ了(おわ)る。

何を以ってか此(かく)の如くなる。祇(た)だ我が見処(けんじょ)の別にして、外には凡聖を取らず、内には根本に住せず、見徹して更に疑謬(ぎびゅう)せざるが為なり」。

 

〔示衆〕4-1

 

師、衆に示して云く、「道流、仏法は用功(ゆうこう)の処無し、祇(た)だ是れ平常無事(びょうじょうぶじ)。ア屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)困(つか)れ来れば即ち臥(ふ)す。愚人(ぐにん)は我を笑うも、智は乃ち焉(これ)を知る。

古人云く、『外に向って工夫を作すは総べて是れ痴頑(ちがん)の漢なり』と。汝且(しばら)く随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立所(りっしょ)皆な真なり。境来たるも回喚(えかん)するを得ず。たとい従来の習気(じっけ)、五無間(むげん)の業(ごう)有るも、自(おのずか)ら解脱の大海と為る」。

 

〔示衆〕4-2


今時の学者は、総べて法を識(し)らず、猶お触鼻羊(そくびよう)の、物に逢著(ほうじゃく)して口裏に安住するが如し。奴郎(ぬろう)弁(べん)ぜず、賓主分かたず。

是の如きの流(たぐい)は、邪心にして道に入り、閙処(にょうしょ)に即ち入る。名付けて真の出家人と為すことを得ず、正に是れ真の俗家人なり。

夫れ出家というは須らく平常真正の見解を弁得(べんとく)して、仏を弁じ魔を弁じ、真を弁じ偽を弁じ、凡を弁じ聖を弁ずべし。若し是の如く弁得せば、真の出家と名づく。

若し魔仏弁ぜずんば、正に是れ一家を出て一家に入る。喚んで造業(ぞうごう)の衆生と作す、未だ名づけて真の出家人と為すことを得ず。

祇(た)だ如今(いま)一箇の仏魔有り、同体にして分かたざること、水乳の合するが如きも鵞王(がおう)は乳を喫す。明眼の道流の如きは、魔仏倶(とも)に打(だ)す。汝若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に浮沈せん。

 

〔示衆〕5-1

 

問う、「如何なるか是れ仏魔?」。

師云く、「汝が一念心の疑処、是れ箇の魔。汝若し万法(まんぽう)の無生(むしょう)にして、心は幻化(げんけ)の如く、更に一塵一法無くして、処処清浄なるに達得すれば是れ仏なり。

然も仏と魔とは染浄の二境なり。山僧が見処に約せば、無仏無生、無古無今、得る者は便ち得、時節を歴(へ)ず、無修無証(むしゅむしょう)、無得無失、一切時中、更に別法無し。設(たと)い、一法の此(これ)に過ぎたる者有るも我は如夢如化(にょむにょか)と説かん。

山僧の所説は皆是なり。道流、即今面前孤明歴歴地(れきれきじ)に聴く者、此(こ)の人は処処に滞らず、十方に通貫し、三界に自在なり。一切境の差別に入れども、回喚(えかん)すること能わず。

一刹那の間に法界に透入して、仏に逢(お)うては仏に説き、祖に逢うては祖に説き、羅漢に逢うては羅漢に説き、餓鬼に逢うては餓鬼に説く。一切処に向って国土に遊履(ゆうり)して、衆生を教化すれども、未だ曽(か)って一念を離れず。随処清浄にして、光(ひかり)十方に透(とお)り、万法(まんぼう)一如なり」。

 

〔示衆〕5-2


「道流、大丈夫児は今日方(まさ)に知る、本来無事なることを。祇(た)だ汝が信不及なるが為に、念念馳求して、頭を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能わず。

円頓(えんどん)の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向いて凡を厭(いと)い聖を忻(ねが)う。 此(かく)の如きの流(たぐい)は、取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。禅宗の見解の如きは、又且(しばら)く然(しか)らず。直(じき)に是れ現今なり、更に時節無し。

山僧が説処は、皆是れ一期(ご)の薬病相(やくへいあい)治(じ)す。総べて実法無し。若し是(かく)の如く見得すれば、是れ真の出家、日に万両の黄金を消(つか)わん。道流、取次(しゅじ)に諸方の老師に面門を印破(いんぱ)せられて、我れ禅を解(げ)し道を解すと道(い)うこと莫れ。

弁(べん)の懸河(けんが)に似たるも、皆な是れ造地獄(ぞうじごく)の業(ごう)、若し是れ真正の学道人ならば、世間の過を求(もと)めず、切急(せっきゅう)に真正の見解を求めんと要(ほっ)す。若し真正の見解に達して円明(えんみょう)ならば、方に始めて了畢(りょうひつ)せん」。

 

〔示衆〕6-1

 

問う、「如何なるか是れ真正の見解?」。

師云く、「 汝但だ一切、凡に入り聖に入り、染に入り浄に入り、諸仏国土に入り、弥勒楼閣(みろくろうかく)に入り、毘廬遮那(びるしゃな)法界に入り、処処に皆な国土を現じて成住壊空(じょうじゅうえくう)す。

仏は世に出でて大法輪を転じ、却(かえ)って涅槃に入って、去来の相貌有ることを見ず。其の生死を求むるに、了(つい)に不可得なり。便ち無生法界に入り、処処国土に遊履し、華蔵世界(けぞうせかい)に入って、尽(ことごと)く諸法の空相にして皆な実法無きことを見る。

唯だ聴法無依の道人のみ有り、是れ諸仏の母なり。所以(ゆえ)に仏は無依より生ず。若し無依を悟れば、仏も亦た無得(むとく)なり。若し是の如く見得せば、是れ真正の見解なり」。

 

〔示衆〕6-2


学人了(りょう)ぜずして、名句(みょうく)に執するが為に、彼の凡聖の名に礙(さ)えらる。所以(ゆえ)に其の道眼(どうげん)を障えて、分明なることを得ず。祇(た)だ十二分教の如きは、皆な是れ表顕(ひょうけん)の説なり。学者会せずして、便ち表顕の名句上に向かいて解を生ず。

皆な是れ依倚(えい)にして、因果に落在し、未だ三界の生死を免れず。汝若し生死去住、脱著(だつじゃく)自由ならんと欲得(ほっ)すれば、即今聴法する底の人を識取せよ。無形無相、無根無本、無住処にして活溌溌地(かつぱつぱつじ)なり。

応(あら)是(ゆ)る万種の施設は、用処(ゆうじょ)祇(た)だ是れ無処なり。所以(ゆえ)に覓著(みゃくじゃく)すれば転(うた)た遠く、之を求むれば転た乖(そむ)く。之を号して秘密と為す。道流、汝、箇の夢の伴子(ばんす)を認著すること莫れ。

遅晩(ちばん)中間、便ち無常に帰せん。汝は此の什麼物(なにもの)をか覓めて解脱と作す。一口の飯を覓取して喫し、毳(ぜい)を補って時を過ごすも、且(しばら)く知識を坊尋せんことを要す。因循(いんじゅん)として楽を追うこと莫れ。

光陰惜しむべし、念念無常なり。粗なるときは則ち地水火風に、細なるときは則ち生住異滅の四相に逼(せま)らる。道流、今時且く四種無相の境を識取して、境に擺撲(はいぼく)せらるるを免れんことを要す。

 

〔示衆〕7-1


問う、「如何なるか是れ四種無相の境?」

師云く、「汝が一念心の疑、地に来たり礙(さ)えらる。汝が一念心の愛、水に来たり溺らさる。汝が一念心の瞋(しん)、火に来たり焼かる。汝が一念心の喜、風に来たり飄(ひるが)えさる。若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん。東湧西没(とうゆうせいもつ)、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没、水を履(ふむ)むこと地の如く、地を履(ふむ)むこと水の如くならん。

何に縁(よ)ってか此(かく)の如くなる。四大の如夢如幻に達するが為の故なり。道流、汝が祇(た)だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う。若し能く是の如く見得せば、便乃(すなわ)ち去住自由ならん」。

 

〔示衆〕7-2

 

山僧が見処に約せば、嫌う底(てい)の法勿(な)し。汝若し聖を愛すれば、聖とは聖の名なり。一般の学人有って、五台山裏に向いて文殊を求む。早く錯り了(おわ)れり。五台山には文殊無し。

汝、文殊を識らんと欲するや。祇(た)だ汝目前の用処、始終不異(ふい)、処処不疑(ふぎ)なる、此箇(これ)は是れ活文殊なり。汝が一念心の無差別光は総べて是れ真の普賢なり。

汝が一念心の自ら能く縛(ばく)を解いて随処に解脱する、此(これ)は是れ観音三昧の法なり。

互いに主伴と為(な)って、出づる時は則ち一時に出づ。一即三、三即一なり。是の如く解得(げとく)して、始めて看教(かんきょう)するに好し。

 

〔示衆〕8-1


師、衆に示して云く、「如今(いま)の学道の人は、且(しばら)く自ら信ぜんことを要す。外に向って覓むること莫れ。総べて他(か)の閑塵境(かんじんきょう)に上(のぼ)って、都(す)べて邪正を弁ぜず。

祇(た)だ祖有り仏有るが如きは、皆な是れ教迹(きょうしゃく)中の事なり。人有って一句子の語を拈起(ねんき)して、或は、隠顕(おんけん)の中より出ずれば、便即ち疑いを生じて、天を照らし地を照らし、傍家(ぼうけ)に尋問して、也(ま)た太(はなは)だ忙然たり。

大丈夫児、祇麼(ひたす)ら主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ 、色を論じ財を論じ 、論説閑話して日を過ごすこと莫れ。

山僧が此間(すかん)には、僧俗を論ぜず、但(あら)有(ゆ)る来者は、尽く伊(かれ)を識得す。任(たと)い伊甚(いず)れの処に出で来たるも、但有(あらゆ)る声名文句(しょうみょうもんく)は、皆な是れ夢幻なり。却って境に乗ずる底の人を見るに、是れ諸仏の玄旨(げんし)なり。

仏境は自ら我は是れ仏境なりと称する能わず。還(かえ)って是れ這箇(これ)無依の道人、境に乗じて出で来たる。若し人有って出で来たって、我に仏を求むれば、我れ即ち清浄の境に応じて出ず。

人有って、我に菩薩を求むれば、我れ即ち慈悲の境に応じて出ず。人有って、我に菩提を求むれば、我れ即ち浄妙の境に応じて出ず。人有って、我れに涅槃を求むれば、我れ即ち寂静(じゃくじょう)の境に応じて出ず。

境は即ち万般差別すれども、人は即ち別ならず。所以(ゆえ)に物に応じて形を現じ、水中の月の如し」。

 

〔示衆〕8-2

 

道流、汝、若し如法ならんと欲得(ほっ)すれば、直に須らく是れ大丈夫児にして始めて得(よ)し。萎萎隋地(いいずいじ)ならば、即ち、得(よ)からず。夫れゼイ嗄(さ)の器の如きは醍醐(だいご)を貯うるに堪えず。大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要(ほっ)す。随処に主と作(な)れば、立処皆な真なり。

但有(あらゆ)る来者は、皆な受くることを得ざれ。汝が一念の疑は、即ち魔の心に入るなり。菩薩の疑う時の如きは、生死の魔便(たよ)りを得。但(た)だ能く念を息(や)めよ。更に外に求むること莫れ。

物来たらば即ち照らせ。汝は但だ現今用うる底を信ぜよ。一箇の事も也(ま)た無し。汝が一念心は、三界を生じて、縁に随い境を被(こうむ)って、分かれて六塵となる汝如今応用する処、什麼(なに)をか欠少(かんしょう)す。

一刹那の間に、便ち浄に入り穢に入り、弥勒楼閣(みろくろうかく)に入り、三眼国土(さんげんこくど)に入り、処処に遊履して、唯だ空名を見るのみ。

 

〔示衆〕9―1

 

問う、「如何なるかこれ三眼国土(さんげんこくど)?」。

師云く、「我れ汝と共に、浄妙国土の中に入って、清浄衣を著(つ)けて法身仏を説き、又無差別国土の中に入って、無差別衣を著(つ)けて報身仏を説き、又解脱国土の中に入って、光明衣を著(つ)けて化身仏を説く。

此の三眼国土(さんげんこくど)は皆な是れ依変(えへん)なり。経論家に約せば、法身を取って根本と為し、報化の二身を用と為す。山僧が見処は、法身は即ち説法する解(あた)わず。

所以に古人云く、「身は義に依って立て、土は体に拠(よ)って論ず」と。法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ建立(こんりゅう)の法、依通(えつう)の国土なることを。

空拳黄葉、用(よ)って小児を誑(たぶら)かす。シツリ菱刺(しつりりょうし)、枯骨上に什麼(なん)の汁をか覓めん。心の外に法無し、内も亦た得べからず、什麼物(なにもの)をか求めん。

 

〔示衆〕9―2


汝諸方に言道(いう)、修有り証有りと。錯(あやま)ること莫れ。設(たと)い修し得る者有るも、皆な是れ生死の業あり。汝言う、六度万行(ろくどろくどまんぎょう)斉(ひと)しく修すと。我れ見るに皆な是れ造業(ぞうごう)。

仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。菩薩を求むるも亦た、是れ造業。看経(かんきょう)看教(かんきょう)も亦た是れ造業。仏と祖師は是れ無事の人なり。所以(ゆえ)に有漏有為(うろうい)も、無漏無為(むろむい)も、清浄の業為(た)り。

一般の瞎禿子(とくす)有って、飽(あ)くまで飯を喫し了って、便ち坐禅観行(かんぎょう)し、念漏を把捉して放起せしめず、喧を厭い静を求む、是れ外道(げどう)の法なり。

祖師云く、「汝若し心を住して静を看(み)、心を挙(こ)して外に照らし、心を摂して内に澄ましめ、心を凝らして定(じょう)に入らば、是の如きの流(たぐい)は皆な是れ造作なり」と。

是れ汝如今与麼(よも)に聴法する底の人、作麼生か他を修し他を証し他を荘厳せんと擬す。渠(かれ)は且く是れ修し得る底の物ならず、是れ荘厳し得る底の物ならず、若し他をして荘厳せしむれば、一切の物を即ち荘厳し得ん。汝且く錯(あやま)ること莫れ。

 

〔示衆〕9―3

 

道流、汝は這の一般の老師の口裏の語を取って、真道なりと為(な)是(し)、是れ善知識不思議なり、我は是れ凡夫心、敢えて他の老宿を測度(そくたく)せず、と。

瞎ル生(かつるせい)汝一生祇(た)だ這箇(しゃこ)の見解を作(な)して、這の一双の眼(まなこ)に辜負(こふ)す。冷噤噤地(れいきんきんじ)なること、凍凌(とうりょう)上の驢駒(ろく)の如くに相似たり。我れ敢えて善知識を毀(そし)らず、口業(くごう)を生ぜんことを怕(おそ)る、と。

道流、夫れ大善知識にして、始めて敢えて仏を毀り、祖を毀り、天下を是非し、三蔵教を排斥し、諸(もろもろ)の小児を罵辱(めじょく)して、逆順の中に向いて人を覓む。所以に我れ十二年中に於いて、一箇の業性(ごっしょう)を求むるに、芥子許(けしばか)りの如くも得べからず。

若し新婦子(しんぷす)の禅師に似たらば、便即(すなわ)ち院を趁(お)い出されて、飯を与えて喫せしめられず、不安不楽なることを怕(おそ)れん。

古よりの先輩は、到る処に人信ぜず、趁(お)い出されて、始めて是れ貴きことを知る。若し到る処に人尽(ことごと)く肯(うけが)わば、什麼(なに)を作(な)すにか堪えん。所以に師子一吼すれば、野干(やかん)脳裂(のうれつ)す。

 

〔示衆〕9―4

 

道流、諸方に説く、道の修すべき有り、法の証すべき有りと。汝は何の法をか証し、何の道をか修せんと説く。汝が今の用処(ゆうじょ)、什麼物(なにもの)をか欠少(かんしょう)し、何の処を修補せん。

後生の小阿師(しょうあし)会せずして、便即(すなわ)ち這般(しゃはん)の野狐(やこ)の精魅(せいみ)を信じて、他が事を説いて他の人を繋縛(けばく)し、理行(りぎょう)相応(そうおう)し、三業を護借(ごしゃく)して始めて成仏するを得、と言(い)道(う)ことを許す。此(かく)の如く説く者、春の細雨の如し。

古人云く、路に達道の人に逢わば、第一に道に向うこと莫れ、と。所以に言う、若し人道を修すれば道行われず、万般(ばんぱん)の邪境(じゃきょう)は頭(こうべ)を競(きそ)って生ず。智剣出で来たって一物無し、明頭(みょうとう)未だ顕われざるに暗頭(あんとう)明らかなり、と。

所以に古人云く、 平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)、と。大徳、什麼物(なにもの)をか覓(もと)む。現今聴法の無依の道人は、歴々地に分明にして、未だ曽って欠少せず、?(なんじ)若し、祖仏と別ならざらんと欲得(ほっ)すれば、但だ是の如く見て、疑誤(ぎご)することを用いざれ。

汝の心心不異(しんじんふい)なる、之を活祖と名づく。心若し異有らば、則ち性相(しょうそう)別なり。心不異なるが故に、即ち性と相と別ならず。

 

[示衆]10-1


問う、「如何なるか是れ心心不異(しんじんふい)の処?」。

師云く、「汝の問わんと擬(ほっ)するや早(すで)に異にし了(おわ)れり、性相(しょうそう)各分かる。道流、錯ること莫れ。世出世の諸法は、皆な自性無く、亦た生性(しょうしょう)無し。但だ空名有るのみ、名字も亦た空なり。

汝は祇麼(ひたす)ら他(か)の閑名を認めて実と為す。大いに錯り了(おわ)れり。設(たと)い有るも、皆な是れ依変(えへん)の境なり。箇の菩提依(ぼだいえ)、涅槃依(ねはんえ)、解脱依(げだつえ)、三身依(さんしんえ)、境智依(きょうちえ)、菩薩依(ぼさつえ)、仏依(ぶつえ)有り。

汝は依変(えへん)国土の中に向いて、什麼物(なにもの)をか覓む。乃至(ないし)三教十二分教も、皆な是れ不浄を拭うの故紙なり。

仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。汝は還(は)た是れ娘生(じょうしょう)なりや。汝若し仏を求むれば、仏魔に摂せられん。汝若し祖を求むれば、祖魔に摂せられん。汝若し求むること有れば、皆な苦なり。如かず無事ならんには」。

 

〔示衆〕10-2


一般の禿比丘有って、学人に向って道(い)う、「仏は是れ究竟(くきょう)なり、三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)に於いて修行果満して、方に始めて成道す」と。

「道流、汝若し仏は是れ究竟(くきょう)なりと道わば、什麼(なに)に縁(よ)ってか八十年後、拘尸羅城(くしらじょう)の双林樹の間に向いて、側臥(そくが)して死し去る。仏は今何(いずく)にか在る。明らかに知んぬ、我が生死と別ならざることを。

汝言う、三十二相八十種(しゅ)好(ごう)は是れ仏なりと。転輪聖王(てんりんじょうおう)も応(まさ)に是れ如来なるべきや。明らかに知んぬ是れ幻化なることを。

古人云く、「如来挙身(こしん)の相は、世間の情に順ぜんが為なり。人の断見(だんけん)を生ぜんことを恐れて、権(かり)に且(しばら)く虚名を立つ。仮に三十二と言う、八十も也た空声なり。有身は覚体(かくたい)に非ず、無相乃ち真形(しんぎょう)」と。

 

〔示衆〕10-3


汝道う、仏に六通あり、是れ不可思議なりと。一切の諸天、神仙、阿修羅、大力鬼も亦た神通あり。応に是れ仏なるべきや。

道流、錯ること莫れ。祇(た)だ阿修羅の天帝釈(てんたいしゃく)と戦うが如きは、戦敗れて八万四千の眷属を領して、藕)糸(ぐうし)の孔中に入って蔵(かく)る。是れ聖なること莫(な)きや。山僧が挙(こ)する所の如きは、皆な是れ業通依通(ごっつうえつう)なり。

夫れ仏の六通の如きは然らず。色界(しきかい)に入って色惑を被らず、声界(しょうかい)に入って声惑を被らず、香界に入って香惑を被らず、味界に入って味惑を被らず、触界(そくかい)に入って触惑を被らず、法界に入って法惑を被らず。

所以に六種の色声香味触法の皆な是れ空相なるに達すれば、此の無依の道人を繋縛(けばく)すること能わず。是れ五蘊(ごうん)の漏質(ろしつ)なりと雖も、便ち是れ地行の神通なり。

 

〔示衆〕10-4


「道流、真仏は無形、真法は無相。汝は祇麼(ひたす)ら幻化(げんけ)上頭に、模(も)を作(な)し様(よう)を作(な)す。

設(たと)い求め得る者も、皆な是れ野狐の精魅(せいみ)、並びに是れ真仏ならず、是れ外道の見解(けんげ)なり。夫れ真の学道人の如きは、並びに仏を取らず、菩薩羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず。ケイ然独脱(けいねんどくだつ)して、物と拘わらず。

乾坤倒覆すとも、我れ更に疑わず。十方の諸仏現前すとも、一念心の喜無く、三途(さんず)地獄(じごく)頓に現ずとも、一念心の恐れ無し。

何に縁(よ)ってか此の如くなる。我れ見るに、諸法は空相にして変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無。三界唯心(さんがいゆいしん)、万法唯識(まんぼうゆいしき)なり。所以に夢幻(空花(むげんくうげ)、何ぞ把握を労せん。

唯だ道流、目前現今聴法底の人のみ有って、火に入って焼けず、水に入って溺れず、三途(さんず)地獄(さんずじごく)に入るも、園観(おんかん)に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入って 而も報を受けず。

何に縁(よ)ってか此の如くなる。嫌う底の法無ければなり。汝若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏(しょうじかいり)に沈浮せん。

煩悩は心に由るが故に有り、無心ならば煩悩何ぞ拘らん。分別取相を労せず、自然に得道須臾なり。汝、傍気波波地(ぼうけははじ)に学得せんと擬せば、三祇劫の中に於いてすとも、終に生死に帰せん。

如かじ無事にして、叢林(そうりん)の中に向いて牀角頭(じょうかくとう)に脚を交えて坐せんには」。

 

〔示衆〕10―5


道流、如(も)し諸方より学人の来たる有らば、主客相見し了って、便ち一句子の語有って、前頭の善知識を弁ず。

学人に箇の機権(きけん)の語路を拈出(ねんしゅつ)して、善知識の口角頭に向ってザン過して、汝識(し)るや識(し)らずやと看せらる。汝若し是れ境なることを識得すれば、把得して便ち坑子裏(こうすり)に抛向(ほうこう)す。学人便即(すなわ)ち尋常なり。

然る後に便ち善知識の語を索(もと)む。依前(いぜん)として之を奪う。学人云く、上智なる哉、是れ大善知識と。

即ち云く、汝大いに好悪(こうお)を識らずと。善知識の如きは、箇の境塊子(きょうかいす)を把出して、学人の面前に向(お)いて弄す。前人弁得(べんとく)して、下下(げげ)に主と作(な)って境惑(きょうわく)を受けず。

善知識便即(すなわ)ち半身を現ず。学人便ち喝す。善知識また一切差別の語路の中に入って擺撲(はいぼく)す。学人云く、好悪(こうお)を識らざる老禿奴(ろうとくぬ)と。善知識歎じて曰く、真正の道流と。

諸方の善知識の如きは、邪正を弁ぜず。学人来たって菩提涅槃(ぼだいねはん)、三身の境智を問えば、瞎老師(かつろうし)は便ち他の与(ため)に解説(げせつ)す。他の学人に罵著(めじゃく)せられて、便ち棒を把って他を打つ、言に礼度(れいど)無し、と。

自ら是れ汝善知識眼(まなこ)無し、他を瞋(いか)ることを得ず。一般の好悪(こうお)を識らざる禿奴有って、即ち東を指し西を画し、晴を好み雨を好み、灯籠露柱を好む。汝看よ、眉毛幾茎(いくけい)か有る。這箇(しゃこ)機縁を具す。

学人会せずして、便即(すなわ)ち心狂す。是の如きの流(たぐい)は、総べて是れ野狐の精魅魍魎(せいみもうりょう)。他(か)の好学人にアクアク(あくあく)と微笑せられて、瞎老禿奴(かつろうとくぬ)、他の天下の人を惑乱すと言わる。

 

〔示衆〕10-6


道流、出家児は且(しばら)く学道を要す。祇だ山僧の如きは、往日曽(か)って毘尼(びに)の中に向かいて心を留(と)め、亦た曽って経論を尋討(じんとう)す。

後、方に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂に乃ち一時に抛却して、即ち道を訪い禅に参ず。後、大善知識に遇いて、方乃(はじめ)て道眼分明にして、始めて天下の老和尚を識得して其の邪正を知る。

是れ娘生下(じょうしょうげ)にして便ち会するにあらず、還って是れ体究練磨して、一朝に自ら省(しょう)す。

道流、汝如法(にょほう)に見解せんと欲得(ほっ)すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向かい外に向って、逢著(ほうじゃく)すれば便ち殺せ。仏に逢(お)うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷(しんけん)を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり。

 

〔示衆〕10―7

 

諸方の学道流(がくどうる)の如きは、未だ物に依らずして出で来る底(てい)有らず。山僧は此間(すかん)に向いて従頭(じゅうとう)に打す。手上に出で来たれば手上に打し、口裏(くり)に出で来たれば口裏(くり)に打し、眼裏(げんり)に出で来たれば眼裏に打す。

未だ一箇も独脱し出で来る底(てい)有らず。皆な是れ他(か)の古人の閑機境に上る。山僧は一法の人に与うる無し。祇だ是れ病(やまい)を治し縛を解く。

汝諸方の道流、試みに物に依らずして出で来れ、我れ汝と共に商量(しょうりょう)せんと要(ほっ)す。十年五歳、並びに一人も無し。

皆な是れ依草附葉(えそうふよう)、野狐の精魅にして、一切の糞塊(ふんかい)上に向って乱咬(らんこう)す。瞎漢(かっかん)、枉(いたずら)に他(か)の十方の信施(しんせ)を消(しょう)し、我は是れ出家児と道(い)って、是(かく)の如き見解(けんげ)を作(な)す。

汝に向って道(い)わん、無仏無法、無修無証と。祇だ与麼(よも)に傍家に什麼物(なにもの)をか求めんと擬(ほっ)す。

瞎漢(かつかん)、頭上に頭を安(お)く。是れ汝什麼(なに)をか欠少(かんしょう)する。道流、是れ汝目前に用うる底は祖仏と別ならず。祇麼(ひたす)ら信ぜずして、便ち外に向って求む。

錯(あやま)ること莫れ。外に向って法無く、内も亦た得べからず。汝、山僧が口裏(くり)の語を取らんよりは、如かず休歇(きゅうけつ)して無事にし去らんには。

已起(いき)の者は続ぐこと莫れ、未起(みき)の者は放起することを要せざれ。便ち汝が十年の行脚(あんぎゃ)に勝らん。

 

〔示衆〕10―8


「山僧が見処に約せば、如許多般(そこばくはん)無し、祇だ是れ平常(びょうじょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、無事にして時を過ごす。汝、諸方より来たる者、皆な是れ有心にして仏を求め法を求め、解脱を求め、三界を出離せんことを求む。

痴人、汝は三界を出でて、什麼(いずれ)の処に去らんと要(ほっ)するや。仏祖は是れ賞ゲ底(しょうげてい)の名句なり。

汝、三界を識らんと要(ほっ)するや。汝が今の聴法底の心地を離れず。汝が一念心の貪(とん)は是れ欲界。汝が一念心の瞋(しん)は是れ色界。汝が一念心の痴(ち)は是れ無色界。是れ汝が屋裏の家具子(かぐす)なり。

三界は自ら我は是れ三界なりと道(い)わず。還って是れ道流、目前霊霊地にして、万般を照燭(しょうそく)し、世界を酌度(しゃくど)する底の人、三界の与(ため)に名を安(つ)く。

 

〔示衆〕10―9


「大徳、四大色身(しだいしきしん)は是れ無常なり。乃至、脾胃肝胆(ひいかんたん)、髪毛爪歯(はつもうそうし)も、唯だ諸法の空相を見る。

汝が一念心の歇得(けつとく)する処、喚んで菩提樹と作(な)す。汝が一念心の歇得(けつとく)すること能わざる処、喚んで無明樹と作(な)す。

無明は住処なく、無明は始終なし。汝若し念念心歇不得ならば、便ち他(か)の無明樹に上(のぼ)り、便ち六道四生に入って、披毛戴角(ひもうたいかく)せん。

汝若し歇得(けつとく)せば、便ち是れ清浄身界なり。汝一念不生なれば、便ち是れ菩提樹に上って、三界に神通変化(へんげ)し、意生化身(いしょうけしん)して、法喜禅悦(ほっきぜんえつ)し、身光自ら照らさん。

衣を思えば 羅綺千重(らきせんじゅう)、衣を思えば、百味具足して、更に横病なし。 菩提には住処無し、是の故に得る者無し。

道流、大丈夫の漢、更に箇(こ)の什麼(なに)をか疑わん。目前の用処(ゆうじょ)、更に是れ阿誰(たれ)そ。

把得して便ち用いて名字に著すること莫(な)きを、号して玄旨と為す。

与麼に見得せば、嫌う底の法勿(な)し。

古人云く、心は万境に随って転じ、転ずる処実に幽なり。流れに随って性を認得すれば、喜びも無く亦憂いも無し、と。

 

〔示衆〕10―10


道流、禅宗の見解の如きは、死活循然(じゅんぜん)たり。参学の人、大いに須らく子細にすべし。

主客相見するが如きは、便ち言論往来あり。或いは物に応じて形を現じ、或いは全体作用し、或いは機権(きけん)を把って喜怒し、或いは半身を現じ、或いは獅子に乗り、或いは象王に乗る。

如(も)し真正の学人有らば、便ち喝して、先ず一箇の膠盆子(こうぼんす)を拈出す。善知識は是れ境なることを弁ぜず、便ち他(そ)の境上に上って模を作し様を作す。

学人便ち喝す。前人肯(あ)えて放たず。此れは是れ膏盲(こうこう)の病、医するに堪えず。喚んで、客、主を看(み)ると作す。

或是(あるい)は善知識、物を拈出せず、学人の問処に随って即ち奪う。学人奪われて、死に抵(いた)るまで放たず。此れは是れ主、客を看(み)る。

或いは学人有って、一箇の清浄境に応じて、善知識の前に出づ。善知識は是れ境なることを弁得し、把得して坑裏に抛向(ほうこう)す。

学人言う、大好(だいこう)の善知識と。即ち云く、咄哉(とっさい)、好悪を識らずと。学人便ち礼拝す。此れは喚んで、主、主を看(み)ると作す。

或いは学人有って、枷を披(つ)け鎖を帯びて、善知識の前に出づ。善知識更に与(ため)に一重の枷鎖を安(お)く。学人歓喜して、彼此弁ぜず。呼んで、客、客を看(み)ると作す。

大徳、山僧是の如く挙(こ)する所は、皆是れ魔を弁じ異を揀(えら)んで、其の邪正を知らしむるなり。

 

〔示衆〕10―11


道流、寔情大難(しょくじょうたいなん)、仏法は幽玄なり。解得すること可可地(かかぢ)なり。山僧竟日(ひねもす)、他(かれ)の与(ため)に説破するも、学者は総べて意に在(お)かず。

師云く、「汝が一念心の疑、地に来たり礙(さ)えらる。汝が一念心の愛、水に来たり溺らさる。汝が一念心の瞋(しん)、火に来たり焼かる。汝が一念心の喜、風に来たり飄(ひるが)えさる。若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん。東湧西没(とうゆうせいもつ)、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没、水を履(ふむ)むこと地の如く、地を履(ふむ)むこと水の如くならん。

何に縁(よ)ってか此(かく)の如くなる。四大の如夢如幻に達するが為の故なり。道流、汝が祇(た)だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う。若し能く是の如く見得せば、便乃(すなわ)ち去住自由ならん」。

千偏万偏、脚底に踏過して黒没シュン地(こくもつしゅんち)にして、一箇の形段(ぎょうだん)無くして歴歴孤明なり。

学人信不及にして、便ち名句上に向(お)いて解(げ)を生ず。年の半百に登(なんなん)とするまで、祇管(ひたすら)に傍家に死屍を負うて行き、担子(たんす)を担却して天下に走る。草鞋銭(そうあいせん)を索(もと)めらるること日有らん。

大徳、山僧が外に向(お)いて法無しと説けば、学人会せずして、便即(すなわ)ち裏に向(お)いて解(げ)を作し、便即(すなわ)ち壁に倚(よ)って坐し、舌、上顎(じょうがく)をササえて、湛然として動ぜず。此れを取って祖門の仏法なりと為(な)是す。

大いに錯れり。是れ汝若し不動清浄の境を取って是と為さば、汝即ち他(か)の無明を認めて郎主(ろうしゅ)と為す。

古人云く、湛湛(たんたん)たる黒暗の深坑、実に畏怖(いふ)すべし、と。此れ是れなり。汝若し他(か)の動ずる者を是と認むれば、一切の草木皆な能(よ)く動く、応に是れ道なるべきや。

所以に動は是れ風大、不動は是れ地大。動と不動と、倶に自性無し。汝若し動処に向(お)いて他(それ)を捉(とら)うれば、他(それ)は動処に向(お)いて立たん。譬えば泉に潜む魚の波を鼓して自ら躍るが如し。

大徳、動と不動とは是れ二種の境なり。還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う。

 

〔示衆〕10―12


如(も)し諸方の学人来たらば、山僧が此間(すかん)には三種の根器と作(な)して断ず。

如(も)し中下根器来たらば、我れ便ち其の境を奪って其の法を除かず。

或いは中上根器来たらば、我れ便ち境と法と倶に奪う。

如(も)し上上根器来たらば、我れ便ち境と法と人と倶に奪わず。

如(も)し出格見解の人有って来たらば、山僧が此間(すかん)には、便ち全体作用して根器を歴(へ)ず。

大徳、這裏に到っては、学人著力(じゃくりき)の処は風を通ぜず、石火電光も即ち過ぎ了れり。

学人若し眼定動(じょうどう)せば、即ち没交渉(もつきょうしょう)。心を擬すれば即ち差(たが)い、念を動ずれば即ち乖(そむ)く。人有って解せば、目前を離れず。

 

〔示衆〕10―13


大徳、汝は鉢嚢屎担子(はつのうたんす)を担(にな)って、傍家(ぼうけ)に走って仏を求め法を求む。即今与麼(よも)に馳求(ちぐ)する底(てい)、汝還た渠(かれ)を識るや。

活溌溌地(かっぱつぱつち)にして祇だ是れ根株(こんしゅ)勿し。擁(よう)すれども聚(あつま)らず、撥すれども散ぜず。求著(ぐじゃく)すれば転(うた)た遠く、求めざれば還って目前に在って、霊音(れいいん)耳に属す。若し人信ぜずんば、徒(いたず)らに百年を労せん。

道流、一刹那の間に、便ち華蔵(けぞう)世界に入り、毘廬遮那(びるしゃな)国土に入り、解脱国土に入り、神通国土に入り、清浄国土に入り、法界に入り、穢(え)に入り浄(じょう)に入り、凡に入り聖に入り、餓鬼畜生に入って、処処に討覓尋(とうみゃくじん)するに、皆な生有り死有ることを見ず、唯空名のみ有り。

幻化空花、把捉(はそく)を労せず、得失是非、一時に放却す。

 

〔示衆〕10―14


道流、山僧が仏法は的的相承(てきてきそうじょう)して、麻谷(まよく)和尚、丹霞(たんか)和尚、道一(どういつ)和尚、廬山と石鞏(せきぎょう)和尚と従(よ)り、一路に行じて天下にあまねし。人の信得する無く、尽(ことごと)く皆な謗(そしり)を起こす。

道一(どういつ)和尚の用処の如きは、純一無雑(むぞう)なり。学人三百五百、尽(ことごと)く皆な他(かれ)の意を見ず。

廬山和尚の如きは、自在真正にして、順逆の用処、学人涯際(がいさい)を測らず、悉(ことごと)く皆な忙然たり。

丹霞(たんか)和尚の如きは、翫珠(がんじゅ)隠顕(おんけん)し、学人の来たる者、皆な悉く罵らる。麻谷(まよく)の用処の如きは、苦きこと黄檗の如く、皆な近づき得ず。

石鞏(せきぎょう)の用処の如きは、箭頭(せんとう)上に向(お)いて人を覓む、来たる者は皆な懼(おそ)る。

 

〔示衆〕10―15


山僧が今日の用処の如きは、真正成壊(じょうえ)し、神変(じんぺん)を翫弄(がんろう)し、一切の境に入れども、随処に無事なり。境も換うること能わず。

但有(すべ)て来たって求むる者は、我れ便即(すなわ)ち出でて渠(かれ)を看る。渠(かれ)は我れを識(し)らず。我れ便ち数般の衣を著くれば、学人は解を生じて、一向(ひたむき)に我が言句に入る。

苦なる哉、瞎禿子(かっとくす)無眼の人、我が著くる底の衣を把って青黄赤白を認む。我れ脱却して清浄境中に入れば、学人は一見して、便ち欣欲(ごんよく)を生ず。

我れ又脱却すれば、学人は失心し、忙然として狂走して言う、我れに衣無しと。我れ即ち渠(かれ)に向って、汝は我が衣を著くる底の人を識(し)るやと道(い)えば、忽爾(こつじ)として頭を回らして、我れを認め了れり。

 

〔示衆〕10―16


大徳、汝、衣を認むること莫れ、衣は動ずること能わず、人能く衣を著く。箇の清浄衣有り、箇の無生衣、菩提衣、涅槃衣有り、祖衣有り、仏衣有り。

大徳、但有(あらゆ)る声名(しょうみょう)文句は、皆悉く是れ衣変(えへん)なり。臍輪気海(さいりんきかい)の中より鼓激し、牙歯敲カツ(げしこうかつ)して、其の句義を成す。

明らかに知んぬ、是れ幻化なることを。大徳、外に声語(しょうご)の業を発し、内に心所の法を表わす。思を以って念を有す、皆な悉く是れ衣なり。

汝、祇麼(いちず)に他の著くる底の衣を認めて実解(じつげ)を為さば、縦(たと)い塵劫(じんごう)を経るとも、祇(た)だ是れ衣通(えつう)なるのみ。

三界に循環して、生死に輪廻す。如(し)かず、無事ならんには。相逢うて相識(し)らず、共に語って名を知らず。

 

[示衆]10―17


今時の学人の得ざることは、蓋(けだ)し名字を認めて解(げ)を為すが為なり。大策子(だいさくす)上に死老漢の語を抄(うつ)し、三重五重に複子(ふくす)に包んで、人をして見しめず、是れ玄旨なりと道(い)って、以って保重(ほじゅう)を為す。

大いに錯(あやま)れり。瞎ル生(かつるせい)、汝は枯骨上に向(お)いて、什麼(なん)の汁をか覓む。一般の好悪を識らざる有って、教中に向って取って意度(いたく)商量(しょうりょう)して句義を成(じょう)ず。

屎塊子(しかいす)を把って、口裏に向(お)いて、含み了って、別人に吐き過(や)るが如し。猶お俗人の伝口令(でんくれい)を打するが如くに相似たり。一生虚しく過ごす。

也(たと)い我れは出家なりと道(い)うも、他(ひと)に仏法を問著(もんじゃく)せらるるや、便即ち口を杜(と)じて詞(ことば)無く、眼は漆突(しっとつ)に似、口は扁担(へんたん)の如し。

此の如きの類(たぐい)は、弥勒の出世に逢うとも、他方世界に移置せられ、地獄に寄せて苦を受けん。

 

〔示衆〕10―18


大徳、汝波波地(ははじ)に諸方に往いて、什麼物(なにもの)を覓めてか、汝が脚板を踏んで濶(ひろ)からしむ。

仏の求むべき無く、道の成ずべく無く、法の得べき無し。外に有相の仏を求むれば、汝と相似ず。汝が本心を識らんと欲すれば、合に非ず亦た離に非ず。

道流、真仏無形(むぎょう)、真道無体、真法無相。三法混融して一処に和合す。既に弁ずること得ざるを、換(よ)んで忙忙たる業識(ごっしき)の衆生と作(な)す。

 

〔示衆〕11


問う、「如何なるか是れ真仏、真道、真法?」。乞う、「開示を垂れたまえ」。

師云く、「仏というは心清浄是れなり。法というは心光明是れなり。道というは処処無礙浄光(むげじょうこう)是れなり。三即一、皆な是れ空名にして実有無し。

真正の作道人の如きは、念念心間断せず。達磨大師の西土より来たってより、祇(た)だ是れ箇の人惑を受けざる底の人を覓む。

後に二祖の一言に便ち了(りょう)じて、始めて従前虚(むな)しく功夫(くふう)を用いしことを知るに逢う。山僧が今日の見処は、祖仏と別ならず。

若し第一句の中に得れば、祖仏の与(ため)に師と為る。若し第二句の中に得れば、人天の与(ため)に師と為る。若し第三句の中に得れば、自救不了(じぐふりょう)」。

 

〔示衆〕12-1


問う、「如何なるか是れ西来意?]

師云く、「若し意有らば、自救不了(じぐふりょう)」。

云く、「既に意無くんば、云何(いかん)が二祖法を得たる?」。

師云く、「得るというは是れ不得なり」。

云く、「既若し不得ならば、云何(いかん)が是れ不得底の意?」。

師云く、「汝が一切処に向って馳求(ちぐ)の心歇(や)むこと能わざるが為なり。所以(ゆえ)に祖師言う、咄(とつ)哉(かな)丈夫、頭(こうべ)を持って頭を覓むと。汝言下に便ち自ら回向返照(えこうへんしょう)して、更に別に求めず、身心の祖仏と別ならざるを知って、当下(とうげ)に無事なるを、方(まさ)に得法と名づく。

大徳、山僧今時、事已(や)むを獲(え)ず、話度(わたく)して許多(そこばく)の不才浄(ふさいじょう)を説き出だす。汝且(しばらく)く錯(あやま)ること莫れ。我が見処に拠らば、実に許多(そこばく)多般(たぱん)の道理無し。用いんと要(ほっ)せば便(すなわ)ち用い、用いざれば便(すなわ)ち休(や)む」。

 

〔示衆〕12-2


祇(た)だ諸方の六度万行を以って仏法と為すと説くが如きは、我は道(い)う、是れ荘厳門(しょうごんもん)、仏事門なり、是れ仏法に非ずと。

乃至持斎(じさい)持戒(じかい)、油を擎(ささ)げてこぼさざるも、道眼(どうげん)明らかならず、尽く須らく債を抵(いた)すべく、飯銭を索(もと)めらるる日有らん。

何が故に此(かく)の如くなる。道に入って理に通ぜず、身を復(かえ)して信施(しんせ)を還(かえ)す。長者八十一、其の樹耳(くさびら)を生ぜず。乃至孤峰独宿、一食卯斎(いちじきぼうさい)、長坐不臥、六時行道するも、皆な是れ造業底の人なり。

乃至頭目髄脳(ずもくずいのう)、国城妻子、象馬(ぞうめ)七珍、尽く皆な捨施(しゃせ)するも、是(かく)の如き等の見は、皆な是れ身心を苦しむるが故に、還って苦果を招く。如かず、無事にして、純一無雑(むぞう)ならんには。

乃至十地満心の菩薩も、皆な此の道流のショウ跡を求むるに、了(つい)に得べからず。所以に諸天歓喜し、地神足捧げ、十方の諸仏も称歎(しょうたん)せざるは無し。何に縁ってか此の如くなる。今聴法する道人、用処ショウ跡なきが為なり。

 

〔示衆〕13-1


問う、大通智勝仏(だいつうちしょうふつ)、十劫(じっこう)道場に坐するも、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ず、と。未審(いぶかし)、此の意如何。乞う、師指示せよ。

師云く、「大通とは、是れ自己の処処に於いて其の万法の無性無相なるに達するを、名づけて大通と為す。

智勝とは、一切処に於いて疑わず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは心清浄(しんしょうじょう)、光明の法界(ほっかい)に透徹するを、名づけて仏と為すを得。

十劫(じっこう)道場に坐すというは、十波羅蜜是れなり。仏法現前せずというは、仏本(も)と不生(ふしょう)、法本(も)と不滅、云何ぞ更に現前すること有らん。

仏道を成ずることを得ずというは、仏は応(まさ)に更に仏と作(な)るべからず。古人云く、仏は常に世間に在(いま)して、而も世間の法に染まず」、と。

 

〔示衆〕13-2


道流、汝、仏と作(な)らんと欲得(ほっ)すれば、万物に随うこと莫れ。心生ずれば種種の法生じ、心滅すれば種種の法滅す。

一心生ぜざれば万法咎(とが)無し。世と出世と、無仏無法、亦た現前せず。亦た曽(か)って失せず。設い有るも、皆な是れ名言(みょうごん)章句、小児を接引する施設の薬病(やくへい)、表顕の名句(みょうく)なり。

且つ名句(みょうく)は自ら名句(みょうく)ならず。還って是れ汝目前昭昭霊霊として、鑑覚聞知照燭(かんかくもんちしょうそく)する底、一切の名句を安(つ)く。大徳、五無間(ごむげん)の業を造って、方(はじ)めて解脱を得(う)。

 

〔示衆〕14-1


問う、「如何なるか是れ五無間(ごむげん)の業?」。

師云く、「父を殺し母を殺す。仏身血(ぶっしんけつ)を出だし、和合僧を破し、経像を焚焼する等、此れは是れ五無間(ごむげん)の業なり」。

云く、「如何なるか是れ父?」。

師云く、「無明是れ父。汝が一念心、起滅の処を求むるに得ず。響(ひびき)の空に応ずるが如く、随処に無事なるを、名付けて父を殺すと為す」。

云く、「如何なるか是れ母?」。

師云く、「貧愛を母と為す。汝が一念心、欲界の中に入って、其の貧愛を求むるに、唯だ諸法の空相なるを見て、処処に無著(むじゃく)なるを、名付けて母を害すと為す」。

云く、「如何なるか是れ仏身血(ぶっしんけつ)を出だす?」。

師云く、「汝が清浄法界の中に向(お)いて、一念心の解(げ)を生ずること無く、便ち処処黒暗なる、是れ仏身血(ぶっしんけつ)を出だす」。

云く、「如何なるか是れ和合僧を破す?」。

師云く、「汝が一念心、正に煩悩結使(ぼんのうけっし)の、空の所依(しょえ)無きが如くなるに達する、是れ和合僧を破す」。

云く、「如何なるか是れ経像を焚焼す?」。

師云く、「因縁空、心空、法空を見て、一念決定(けつじょう)断じて、ケイ然(けいねん)として無事なる、便ち是れ経像を焚焼す。大徳、若し是の如く達(たっ)得(たっとく)せば、他(か)の凡聖の名に礙(さ)えらるることを免れん」。

 

〔示衆〕14-2

 

「汝が一念心、祇(た)だ空拳指上(くうけんしじょう)に向いて実解(じつげ)を生じ、根境法(こんきょうほう)中に虚しく捏怪(ねっかい)す。自ら軽んじ退屈して言う、「我れは是れ凡夫、他(かれ)は是れ聖人」と。禿?生(とくるせい)、甚(なん)の 死急(しきゅう)か有って、他(か)の師子皮(ししひ)を披(き)て、却って野干鳴(やかんめい)を作(な)す。

大丈夫の漢、丈夫の気息を作(な)さず、自家屋裏(じかおくり)の物を肯(あ)えて信ぜず、ひたすら外に向って覓め、他(か)の古人の閑名句(かんみょうく)に上り、陰に倚(よ)り陽に博(はか)って特達(とくだつ)すること能わず。

境に逢うては便ち縁(えん)じ、塵に逢うては便ち執し、触処(そくしょ)に惑い起こって、自ら准定(じゅんじょう)無し。

道流、山僧が説処を取ること莫れ。何が故ぞ。説に憑拠(ひょうこ)無く、一期(いちご)の間に虚空に図画(とが)すること、彩画像(さいがぞう)等の喩えの如くなればなり。

道流、仏を将(も)って究竟(くきょう)とすること莫れ。我れ見るに、猶お厠孔(しく)の如し。菩薩羅漢は尽く是れ伽鎖(かさ)、人を縛(ばく)する底(てい)の物なり。

所以(ゆえ)に文殊は剣に仗(よ)って瞿曇(ぐどん)を殺さんとし、鴦掘(おうくつ)は刀を持って釈子(しゃくし)を害せんとす。

道流、仏の得べき無し。乃至三乗五性(ごしょう)、円頓(えんどん)の教迹(きょうしゃく)も、皆是れ一期(いちご)の薬病(やくへい)相(あい)治(じ)す。並びに実法無し。設い有るも、皆な是れ相似(そうじ)、表顕(ひょうけん)の路布(ろふ)、文字の差排(さはい)にして、且(しばら)く是(かく)の如く説くのみ。

道流、一般の禿子(とくす)有って、便ち裏許(りこ)に向いて功を著(つ)けて、出世の法を求めんと擬(ほっ)す。錯(あやま)り了(おわ)れり。

若し人、仏を求むれば、是の人は仏を失す。若し人、道を求むれば、是の人は道を失す。若し人、祖を求むれば、是の人は祖を失す。

 

〔示衆〕14-3


大徳、錯(あやま)ること莫れ。我れ且(しばら)く汝が経論を解することを取らず、我れ亦た汝が国王大臣たることを取らず、我れ亦た汝が弁の懸河(けんが)に似たることを取らず、我れ亦た汝が聡明智慧を取らず、唯だ汝が真正の見解を要(もと)む。

道流、設(たと)い百本の経論を解得(げとく)するも、一箇の無事底の阿師には如かず。汝解得(げとく)すれば、即ち他人を軽蔑す。勝負の修羅、人我の無明、地獄の業を長ず。

善星比丘(ぜんしょうびく)の如きは、十二分教を解すれども、生身(しょうしん)にして地獄に陥り、大地も容れず。如かず、無事にして休歇(きゅうけつ)し去らんには。飢え来れば飯を喫し、睡(ねむり)来たれば眼を合す。

道流、文字の中に向(お)いて求むること莫れ。心動ずれば疲労し、冷気を吸うて益無し。如かず、一念縁起無生にして、三乗権学(ごんがく)の菩薩を超出せんには。

 

〔示衆〕14-4


因循(いんじゅん)として日を過ごすこと莫れ。山僧往(その)日(かみ)、未だ見処有らざりし時、黒漫漫地(こくまんまんぢ)なりき。

光陰虚しく過ごすべからず、腹熱し心(こころ)忙(せ)わしく、奔波(ほんぱ)して道を訪(とぶら)う。後に還って力を得て、始めて今日に到って、道流と是(かく)の如く、話度(わたく)す。

諸の道流に勧む、衣食の為にすること莫れ。看よ、世界は過ぎ易く、善知識には遭い難し。優曇華(うどんげ)の時に一たび現ずるが如くなるのみ。

汝諸方に箇の臨済老漢有りと聞道(きき)て、出で来たって便ち問難して、語り得ざらしめんと擬す。山僧に全体作用せられて、学人空しく眼を開き得て、口総に動き得ず。忙然として何を以って我に答えんかを知らず。

我れ伊(かれ)に向って道(い)う、竜象の蹴踏(しゅくとう)は驢の堪うる所に非ずと。汝は諸処に祇だ胸を指し肋(ろく)を点じて、我れ禅を解し道を解すと道(い)う。三箇両箇、這裏に到って奈何(いかん)ともせず。

咄哉、汝は、這裏の身心を将(も)って、到る処に両辺皮(りょうへんぴ)を簸(ひ)いて、閭閻(りょえん)を誑(おう)ガす。鉄棒を喫する日有らん。出家児に非ず。尽(ことごと)く阿修羅界(あしゅらかい)に向って摂(せっ)せられん。

 

〔示衆〕14-5


夫れ至理(しいり)の道の如きは、諍論(そうろん)して激揚(げきよう)を求め、鏗(こう)ソウとして以って外道を摧(くだ)くに非ず。

仏祖の相承(そうじょう)に至っては、更に別意無し。設(たと)い言教有るも、化儀(けぎ)の三乗五性、人天の因果に落在す。

円頓の教えの如きは、又且く然らず。童子善財は皆な求過(ぐか)せず。

大徳、錯って用心すること莫れ。大海の死屍を停(とど)めざるが如し。祇麼(ひたす)ら担却(たんきゃく)して天下に走らんと擬(ほっ)す。

如(も)し出格見解の人有って来たらば、山僧が此間(すかん)には、便ち全体作用して根器を歴(へ)ず。

自ら見障を起こして、以って心を礙(さ)う。日上に雲無ければ、天に麗(かがや)いて普く照らす。眼中に翳(えい)無ければ、空裏に花無し。

道流、汝如法ならんと欲得(ほっ)すれば、但だ疑を生ずること莫れ。展(の)ぶる則(とき)は法界に弥綸(みりん)し、収むる則(とき)は糸髪も立たず。歴歴孤明にして、未だ曽って欠少(かんしょう)せず。

眼見ず、耳聞かず、喚んで什麼(なに)物(もの)とか作(な)す。古人云く、説似一物則不中(せつじいちもつそくふちゅう)と。

汝但だ自家に看よ。更に什麼(なに)か有らん。説くも亦た無尽(むじん)。各自に力を著(つ)けよ。珍重。


現代語訳

上堂


上堂1-1

 

成徳府知事の王常侍は部下の諸役人と共に師に説法を願い出た。師は説法の座に上って云った、「今日、わしは已むを得ず、世間の慣わしに順って、説法の坐に登ることとなった。しかし正統的立場に立って禅の根本義を説こうとするならば、全く口の開きようもない。またお前達が足を置こうとしても取り付くしまもないのだ。 今日、わしは常侍殿のたっての強い願いを受けた。どうして禅の本質を隠し通せようか。誰かお前達の中で力量ある者がいて、わしに旗鼓堂々と法戦を挑んで来るものがおるか。もし我こそと思う者がおるなら、皆の前で禅の実力を見せてくれ」。

僧が尋ねた、「仏法の究極のところはどういうものですか?」

師はすかさず「かぁっ!」と一喝した。僧は礼拝した。

師は云った、「この坊さん、結構わしの相手になるわい」。

僧が尋ねた、「和尚さんは誰の宗旨と法を受け嗣がれたのですか?」

師は云った、「わしは黄檗の処で修行し、三度質問して三度打たれた」。

ここで僧は考え、もたついた。すかさず師は「かぁっ!」と一喝し追いうちをかけるように棒で一打し、「大空に釘やくさびを打つような無駄なことはするな」と言った。

 

上堂1-2


座主(ざす)が質問した、「仏教の三乗十二分教は、すべて仏性を説き明かすものではありませんか?」

師は云った、「そんなものでは無明の荒草を鋤き返すことはできんよ」。

座主は云った「しかし、まさか仏が人を騙すようなことはなさらないでしょう」。

師は云った、「その仏というものはどこにいるんだ?」

座主は無言のままだった。

師は云った、「お前さんは常侍殿の前で、わしをあざむこうとするのか。下がれ、下がれ! 他の人の質問の妨げになるだけだ」。

師は続けて云った、「今日の集まりは仏法の根本を明らかにするためだ。 もう質問のある者はいないか?おればさっさと出て来て質問せよ。 しかし、お前たちが口を開けばその途端に、もう仏法の根本とは無縁になる。  どうしてそのようなことが言えるのだろうか。 釈尊も『仏法は文字を離れている。因にも属せず縁にも依存しない。』と言われているではないか。 お前達が自分自身を信じることができないため、このような 無用な議論に落ちこむのだ。そんなことでは常侍殿や官員の皆さんに累を及ぼして、仏性を一層分からなくするばかりだ。 そろそろわしもここで引き下がった方が良かろう」。

そこで師は「かぁっ!」と一喝して云った、「自分を信じることができない者はいつになっても埒のあく日はないぞ」。

「では、長い間立ち通しでご苦労さん」。


上堂2

 

ある日師は河北府に行った。そこでは県知事の王常侍が師に説法を請うた。

師が説法の坐に登ると麻谷が進み出て質問した、「千手千眼の観世音菩薩の眼は一体どれが正面の眼ですか?」。

師は云った、「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが正面の眼だと? お前こそさあ、すぐ言ってみよ」。

すると麻谷は師を演壇から引きずり下ろし、自分が代わって坐った。

師は麻谷の前に近づいて、「ご機嫌よろしゅう」と挨拶した。

麻谷はまごついた。師は麻谷を演壇から引きずり下ろすと、自分が坐った。すると麻谷はさっと出て行った。そこで師はさっと演壇から下りた。

 

上堂3

 

師は上堂して言った、「生身の身体には一無位の真人がいて、常にお前たちの面門より出入している。 未だこれを見届けていない者は、サア見よ!見よ!」。

その時1人の僧が進み出て質問した、「その無位の真人とはいったい何者ですか?」。師は席を降りて僧の胸倉を捉まえ「さあ言え!言え!」と迫った。

その僧は戸惑ってすぐに答えることができなかった。師は僧を突き放して、「お前さんの無位の真人はなんと働きのないカチカチの糞の棒のようなものだな。」と云って方丈に帰った。

(本編より若干引用)

 

上堂4


上堂すると、一人の僧が出て来て礼拝した。すかさず師は一喝した。僧は云った、「老師、探りを入れるのはやめて下さい」。

師は云った、「お前は今の喝はどこに収まったと思うのか」。すぐさま僧は一喝した。

また一人の僧が尋ねた、「仏法の究極のところは一体何でしょうか?」すぐさま師は一喝した。僧は礼拝した。

師は云った、「お前は今の喝は良い喝だと思うのか」。

僧は云った、「盗賊はぼろ敗けだ」。

師は云った、「その敗因はどこにある?」 

僧は云った、「二度と賊を働いてはならぬぞ」。師は直ちに一喝した。

上堂4-1


この日、前堂と後堂の首座が行き合うと、同時に一喝を交えた。

それを見た僧が師に尋ねた、「只今の喝に主客の別が有りますか?」

師は云った、「主客の別ははっきりしている」。

師は「もしお前達がわしの言う主と客の意味を知りたいならば、堂中の二首座に尋ねよ」と云って座を下りた。


上堂5


上堂するとある僧が尋ねた、「仏法の究極のところは何でしょうか?」師は払子を立てた。

僧は一喝した。師はただちに払子で僧を打った。又一人の僧が尋ねた、「仏法の究極のところは何でしょうか?」

師がまた払子を立てると僧は一喝した。師もまた一喝すると、僧はもたついたので、師はただちに打った。

師は云った、「諸君、法を求めて修行する者は命を惜しんではならぬ。わしは二十年間黄檗老師の処で修行した。

三度仏法の究極のところを尋ねた時、三度黄檗老師に棒で打たれた。それは蓬の柔らかな枝で撫でられたようであった。

もう一度あのような棒を受けて見たいものだ。誰かわしの為に打ってくれる者はいないか」。

その時に一人の僧が大衆の中から出で来て云った、「私にはやれます」。

師は棒を取って彼に与えた。その僧が受け取ろうとした時、師は直ちに打った。

上堂6


上堂するとある僧が尋ねた、「真剣を抜き放った時はどうすればよいでしょうか?」

師は云った、「大変だ!、大変だ! 」。僧はまごついた。師はすかさず打った。 

またある僧が尋ねた、「石室行者(あんじゃ)は碓を踏みながら無心の境に入り、脚を動かしていることを忘れていたと云われます。

この時彼は何処に向かって行ったのでしょうか?」

師は云った、「深泉に沈没していたのだ」。

師はまた云った、「わしの処に来る全ての者はそれ(深泉)を持っている。もし彼がそこ(深泉の世界)からそのように来たら、

あたかも自己を見失っているかのようだ(わしには、そのように見える)。

もしそのように来なければ(深泉の世界からそのように来ないなら)、縄がないのに自らを縛っている(迷っている)ようなものだ。

いかなる時も、むやみに分別意識を使って分別してはいけない。

分かったとか分からないとか言っても、全て誤りだとわしは、はっきり言う。

後は天下の人の批判に任せるばかりだ。長い間立ち通しでご苦労さん」。

上堂7


上堂して云った、「一人は絶対究極の独尊の悟りの境地に到達して、もはやその先に進む路は無い。

他の一人は世俗の生活をして、一切の相対を超えているが進退の自由を失っている。さてこの内どちらが優れどちらが劣っているだろうか?

前者は 維摩詰(ゆいまきつ)で、後者は傅大士(ふだいし)などと言ってはならんぞ。ご苦労さん」。


上堂8


上堂して言った、「一人は永劫に途中に在って家舎を離れない。一人は家舎を離れて途中にいない。いずれがまさに人天の供養を受ける資格があるだろうか?」と言うと直ぐに下座した。


上堂9


上堂するとある僧が尋ねた、「師は三句をもって修行者を指導されるとのことですが、禅の第一句とはどのようなものですか?」

師は云った、「それを印章に譬えて言うと、三要(さんよう) の印を押してから持ち上げると、赤い色模様がくっきり出てくる。そのように憶測を入れる余地もなくはっきりと主・客が分離して顕現する」。

僧が質問した、「では第二句とはどのようなものですか?」

師は云った、「文殊菩薩の悟りの智慧は無著(むじゃく)の問いを寄せ付ける余地も無い。その智慧の力は煩悩の流れを断ち切る働きをする 」。

僧が質問した、「では第三句とはどのようなものですか?」

師は云った、「舞台であやつり人形がいろいろ演技する。それはみな裏であやつる人がいるからだとはっきりと見取るが良い」。

師はさらに、「いま三句を説明したが、この三句の内どの一句にも三玄門が具(そな)わっていなければならない。

一玄門には三要が具(そな)わっていなければならない。そうなれば方便も働きも出てくるのだ。諸君、そこをどのように会得したかな?」

と言って座を下りた。


示衆


〔示衆〕1-1

師は夜の説法で、修行者達に教えて云った、「私は有る時は人を奪って境を奪わない(奪人不奪境)。有る時は境を奪って人を奪わない(奪境不奪人)。 有る時は人境ともに奪う(人境倶奪)。有る時は人境ともに奪わない(人境倶不奪)」。

その時一人の僧が尋ねた、「人を奪って境を奪わない(奪人不奪境)とはどのような境地ですか?」

師は云った、「春の陽光が輝く季節になると、大地はまるで錦のしとねのようになり、みどり児の垂らす髪は絹糸のように白く輝いている」。

僧は尋ねた、「境を奪って人を奪わない(奪境不奪人)とはどのような境地ですか?」

師は云った、「国王の命令はあまねく励行されて天下は泰平である。辺境を守る将軍は戦乱の塵煙を全く上げさせない」。

僧は尋ねた、「人境ともに奪う(人境両倶奪)とはどのような境地ですか?」

師は云った、「併州と汾州は中央政府と断絶して、今や独立している」。

僧は尋ねた、「人境ともに奪わない(人境倶不奪)とはどのような境地ですか?」

師は云った、「国王は宮殿に鎮座し、老農夫は自由を謳歌する」。


〔示衆〕1-2


そこで師は云った、「今日仏法を修行する者は、何よりも真正の見地を求めることが肝心である。

若し真正の見地を得れば、生死の問題に染まることなく、死ぬも生きるも自由になる。至高の境地を求めようとしなくても、そこに自(おのず)から至るのだ。

諸君、古の祖師達は皆な修行者を悟りに導く方法を心得ていた。今、わしがお前達に言いたいのは、ただ他人に惑わされるなということだ。

自分でやろうと思ったら、すぐやることだ。けっしてぐずぐずしてはならない。この頃の修行者が駄目な原因はどこにあるのか。病因は自分を信じ切れない処に在るのだ。若し自分を信じ切れぬと、あたふたとあらゆる現象について回り、それに翻弄されて、自由になれないのだ。もしお前達が外に求める心が無くなれば、そのまま祖仏と同じだ。 

お前達はその祖仏に会いたいか。今わしの面前でこの説法を聴いているお前達こそがそれだ。お前達はそれを信じることができないため、外に向って求める。しかし、たとえ求めることができたにしても、それは言葉の上で耳によく響くだけだ。それでは活きた祖仏の心は絶対つかむことはできない。

諸禅徳よ、思い違ってはならんぞ。今ここでその祖仏を悟らなかったら、永遠に迷い世界に転生し、好ましい条件に引きずり回されるままに、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。

君達、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と同じだ。今それが示す様々な働きに何か足りないものがあろうか。六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)の絶妙な働きは未だかって途絶えたことはない。もし、このところをはっきり見得できれば一生無事大安楽の人になるだろう」。

〔示衆〕1-3

「諸君、法華経に「三界は安きこと無し、猶お火宅の如し」とあるように、火宅のようなこの世界は君達が久しく留まる処ではない。死の殺鬼は一刹那(せつな)の間に貴賎老若を選ばず生命を奪ってしまうのだ。

君達が祖仏と同じになりたいならば、決して外に求めてはならん。お前達の本来の心に具わる清浄光がお前達の法身仏(ほっしんぶつ)なのだ。お前達の本来の心に具わる無分別光がお前達の報身仏(ほうしんぶつ)だ。 お前達の本来の心に具わる無差別光が、お前達の化身仏(けしんぶつ)なのだ。

此の三種の仏身とは、今わしの目前で説法を聴いているお前達そのものだ。外に向って探し求めないからこそ、このような働きがあることが分かる。 経論の専門家は、仏の三身を仏法の究極だとしている。

しかし、わしの見地からはそうではない。この三身仏は単なる名前で、仮りの拠り所に過ぎない。古人も「三身仏は仏教の教義から出てきたもので、仏国土はその概念から設定したものだ」と云っている。 法身仏とか、法性の仏国土などは、明らかに単なる思想や概念に過ぎない。

諸君よ、その思想や概念をちらつかせている本体を見て取らねばならない。それこそ諸仏の本源であり、お前達が帰り着くべき家郷なのだ。 お前達の生ま身の肉体は、説法も聴法もできない。 胃や肝臓などの内臓も説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。

それでは一体何者が説法したり聴法したりしているのだろうか。 今わしの目前にはっきりと居て、はっきりと肉体としての形体はないが独自の輝きを発しているお前達そのもの、それこそが説法したり聴法することができるのだ。もし、そのように理解できれば、お前達は祖仏と同じだ。 そうなれば朝から晩までとぎれることなく、目に触れるもの全てが肯ける。

ただ情念が起こると智慧は遠ざかり、想念が変化すれば本体も変わるために、 迷いの世界に輪廻して、種々の苦しみを受けるのだ。 もし、わしの見地に立てば、全ては深遠極まりなく、そのままで解脱しないものは無い」。

[示衆]1-4


諸君、心には形が無く、十方世界を貫いている。眼に働けば見、耳に働けば聞き、鼻に働けば嗅ぐ。口に働けば話し、手に働けば捉まえ、足に働けば歩いたり走ったりする。

しかし、元々これは1精明(せいめい)なのだ。それが分かれて六感覚器官(六和合)を通して働いているのだ。その一心が無であると徹見したならばいかなる境遇にあってもそのまま解脱できる。私がそのように説く意図はどこにあると思うか。君達があれこれ求め回る心を止めることができずに、古人のつまらない方便に取り付いているからだ。

諸君、私の見地に立てば、報身仏、化身仏の頭を断ち切り、十地の菩薩でも召使同然だし、等覚・妙覚の悟りを得た者でも牢獄の囚人同様だ。羅漢・辟支仏も便所の汚物のようなもの、菩提涅槃はロバを繋ぐ棒杭のようなものだ。

君達がこのように徹し切れないのは何故だろうか。君達が悟りを達成するためには無限の時間がかかるという先入観を否定できないから、こんなつまらぬものに引っかかるのだ。本物の修行者なら、決してそんなことはない。

ただその時その時の在りようのままに宿業を消して行き、成り行きのままに着物を着て、歩きたければ歩く、坐りたければ坐る。修行して仏果を得ようとは思わない。何故かと言えば古人も、『もしあれこれ計らいをして成仏しようとしたならば、仏は輪廻生死の大きな兆しである』と言っているではないか」。


[示衆]1-5


諸君、時の経つのは惜しい。それなのに、君達は道草をくって、禅を学び、仏道を学び、記号や言葉にこだわり、仏や祖を求め、善知識を求めてうろついている。

しかし、諸君、間違ってはならんぞ。君達にはただ一人の主人公がいるだけだ。それ以上、何を求めようとしているのだ。それよりお前達自身の内側を照らして看なさい。

古人は、「演若達多(えんにゃだった)は自分の頭を失ったと早合点して、さがし回った。そのようにあたふた探し求める心がやめば無事安泰だ」と言っているではないか。お前達、平常心を見失って、格好をつけたりしてはならない。


〔示衆〕2


師は修行者に説いて云った、「わしが修行者に応対する場合を考えると、ある時は照が先で用が後であり、ある時は用が先で照が後である。また有る時は照と用が同時であり、照と用が同時ではない。

照が先で用が後である場合は、働きとしての人がまず先に現われる。用が先で照が後である場合は、働きとしての法がまず先に現われる。照と用が同時の場合とは、農夫が牛を追い立てる場合と同じだ。

或いは、腹が減った人が他人の食料をさっと強奪するようなものだ。或いは、わしが修行者の骨を抜き取って、髄を奪うような指導をする時のようだし、針や錐を皮膚に突き刺すと同時に痛さを感じる。そのようなものだと言っても良い。

照と用が同時ではない場合とは、質問もさせるし答もある。客として迎え主人として応接する。あるいは、相手が浸かっている泥水に一緒にまみれ、相手の力量の応じて対応する。

この場合、もし、相手がずば抜けた力量の人ならば、問題が提起される前に、さっと袖を払って行ってしまうだろう。しかし、それでも未だ少し違う」。


〔示衆〕3-1


師は修行者に説いて云った、「諸君、世界に広くに真正の見解(けんかい)を求めて、修行しなければならない。そのへんで大風呂敷を広げ、野狐禅を説く狐つきのような怪しげな禅坊主なんかに惑わされてはならない。

無事の人こそが高貴なのだ。ことさら、計らいをしてはならない。ただ平常あるがままで居れば良いのだ。お前達は外に向って脇道に逸(そ)れ、手助けを求めようとする。しかし、それは間違いだ。お前達は仏を求めようとするが、仏とは単なる名前に過ぎないのだ。

お前達、その求め回っている自分の正体が一体何かが分かるか。三世十方の仏祖達がこの世に出て来たのも、ただ真の仏法を求めてなのだ。今ここにいるお前達もまた真の仏法を求めて参禅修行しているのだ。

だから法を得たらそれで全てが完了する。得なければ、今まで通り五道を輪廻するだけだ。それでは真の仏法とは何か。真の仏法とは心法である。

心法は形が無く、十方世界を貫き、目の前に生き生きと働いているではないか。人はそれに気付かず、信じることができない。「仏や菩提」などの文句や名前にこだわり、文字の中に仏法を求めようとするのだ。これでは天地が遥かに離れているように大間違いだぞ」。


〔示衆〕3-2

諸君、ここが分かったら直ぐに活用して、名前には一切とらわれないことだ。これがわしの奥義だ。わしの説法は、世間一般のものとちょっと違う。

たとえば文殊や普賢が目の前にその菩薩の姿を現わし、「和尚さんに仏法をお尋ねしたい」と問いかけただけで、わしはその心中を見抜いてしまうのだ。わしがここで静かに坐っているところへ、修行者がやって来て対面しても、わしはすっかり彼の実力を見抜いてしまう。

どうしてこのようなことができるかと言えば、わしの見地が格別で、外に向かっては凡聖の基準を当てはめず、内には悟りの根源にぬくぬくと安住せず、真の自己を徹見してそれを疑わないからだ」。


〔示衆〕4-1


師は皆に説いた、「諸君、仏法には、はからいを加える必要は無い。ただ平常ありのままでありさえすれば良いのだ。

わしは大小便をし、着物を着、飯を食い、疲れたら横になるだけだ。わしのそのような姿を愚人は笑うかも知れない。しかし、智者はそれで良いと分かっているのだ。古人も『自分の外に造作を加えるのは皆頑固な愚か者だ』と云っているではないか。

君達、たとえどんな環境にあっても主体性を持って生きよ。そうすれば自分のまわりは真実の場となるのだ。そうなれば、たとえ逆境が来ても君達は環境に振り回されるようなことはない。過去の煩悩の残滓、無間(むげん)地獄へ落ちる五悪業などがたとえ有っても、それがおのずと解脱の大海となるのだ」。

〔示衆〕4-2

今の修行者達は、まったく仏法というものを知らない。あたかも、鼻にぶつかった物を何でも口に入れる羊のように何に出会っても口に入れてしまう。召使(めしつかい)と主人の区別もつかず、主と客の見分けもできない。

このような輩(やから)は、不純な目的で出家したから賑やかな盛り場を好む。これでは真の出家と言うことはできず、単なる俗人に過ぎない。

いやしくも出家たる者は普通の日常生活で「真正の見解」を得て、仏と魔を見分け、真・偽、凡・聖を見分けなければならない。

若しこのような力を付ければ、真の出家と言うことができる。魔と仏を見分けることができないような人は、家から家へと渡り歩く造業の人で、未だ真の出家と言うことはできない。

たとえば、乳と水が混じったような仏と魔が一体になった仏魔が今ここに現れたとしよう。そんな時でも鵞王(がおう)はその中から乳だけを選び分けて飲むと言われる。

しかし、明眼の修行者なら、魔仏を一挙に打ち据える。もし聖だけを愛し凡を憎むようならば、生死の苦海に浮き沈むだろう。

〔示衆〕5-1


問い、「仏と魔とはどんなものですか?」。

師は云った、「お前に一念の疑いが起これば、それが魔である。もしお前が全てのものは生起することなく、心は幻のように変化し、塵一つもなく空であり、清浄であると悟ったならば仏である。仏と魔とは浄と不浄の二つの相対的関係に過ぎない。

わしの見地からすれば、仏も衆生も無い。古人も現在人の区別も無い。得たものはもとからあるものであり、長い修行の時間を経てから得たのではない。修得の要も証明の要もない。得るということも失うということもない。

いかなる時においても、これ以外の法は無い。たとえ、これより優れた法があるにしても、それも夢や幻のようなものだ。わしの説はこのようなものだ。

お前達、今わしの目の前で独自の輝きを発しながら、わしの説法をはっきりと聴いている者、それはあらゆる処に滞(とどこお)らず、十方の世界を貫いて自由である。

この者はあらゆる種類の世界に入っても、ひっくり返されることはない。瞬間に世界に入って、仏に逢(お)えば仏に説き、祖に逢えば祖に説き、羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説く自由さだ。

あらゆる場所でさまざまな世界に遊びながら、衆生を教化するが、当初の一念を離れない。いたるところが清浄で、光明は十方に行き渡り、一切のものは一つである」。


〔示衆〕5-2


君達、禅が分かった偉丈夫たる者は今こそ「本来無事の人だ」と分かっても良いのだ。ただ君達はそれを信じることができない。そのため、自分を見失って探し求めた演若達多(えんにゃだった)のように、いつも不安にかられてせかせかと求め回って安心することが出来ないだけだ。

円頓(えんどん)の菩薩でさえ、法界の浄土に向って凡を嫌い聖を希求する。しかし、そのような者達は、未だ取捨選択の分別意識が残っている。未だ心が汚染されている。しかし、禅宗の見解は、それとは違う。今生きている現在が大事で更に別の時節を待ったりしないのだ。

わしの説法は、全てその時時に応じた薬であり、心の病を治すが、治れば薬はいらない。実体的な法などはどこにも無いのだ。若しこのように見得すれば、真の出家であり、一日に万両の黄金を使い切るような価値ある生き方をしていると言える。

諸君、諸方の老師の下でいい加減に印可証明されて、俺は禅が分かった、道も極めたと言ってはならんぞ。たとえその弁舌がさわやかで、滝が落ちるように滔滔と説法しようとも、地獄へ落ちる原因を造っているのだ。

真の修行者ならば、他人の落ち度などに目もくれず、切急(せっきゅう)に真正の見解を求めないといけない。若し真正の見解に達して満月のように円明(えんみょう)に輝くならば、その時に始めて修行は成就したと言えるだろう。


〔示衆〕6-1


問い、「真正の見解とはどのようなものですか?」。

師は云った、「君達はただそのままで、凡俗の世界や聖なる世界に入り、不浄界に入り、浄界である諸仏の世界、弥勒楼閣(みろくろうかく)や毘廬遮那(びるしゃな)法界に入り、至る処に国土を現じて成住壊空(じょうじゅうえくう)することだ。

ブッダはこの世に生まれて教えの輪を回した後、涅槃に入ったがそこには出入去来の姿は見られないし、その生死を求めても分からない。そのまま生滅を超えた世界に入り、至る所の国土に遊行し、蓮華蔵世界に入って、全ての法は空で実体が無いのだと徹見する。

ただこの説法を聴いている無依独立の真人こそが、諸仏の母なのだ。仏はその無依独立の真人(脳)より生れ出る。もし無依独立の真人に到達できれば、仏とは得るものではないと分かる。もしこのように見得できれば、それが真正の見解と言えるのだ。 」。


〔示衆〕6-2


修行者はここのところが分からず名前や言葉に執着し、凡聖の概念にひっかかる。そのため心眼を暗まされて、はっきり見ることができないのだ。

仏陀一代の大蔵経典もすべて、看板の文句に過ぎないのだ。修行者はそこが分からず看板文句にいろいろ解釈を加えている。そんなものにもたれかかるようでは、因果に落ち、生死の迷いの世界から解脱することはできない。

お前達は自由に着物を脱いだり着たりするだろう。そのように、自由に生死に出入したいなら、いまわしの説法を聴いている人(脳)を識取しなければならない。それは形も姿も無く、根も本も無く、どこにも滞ることなく、ピチピチと活発に動いているではないか。

それが発動するさまざまな方便とその働きの跡かたは探してもどこにも無い。ゆえに、追いかければ追いかけるほど遠ざかり、求めれば求めるほど外れて行く。これを「秘密」と言うのだ。

お前達、自分のこの夢幻のような肉体を実在として執着してはならない。そんなものは遅かれ早かれ死滅してしまうものだ。お前達はここで一体何を求めて解脱しようとしているのか。

一口の飯にありつき、衣のつくろいをして時を過ごすよりは、善知識を尋ねて教えを乞う方が良い。のうのうと五欲の楽しみを追ってはならないのだ。

光陰は過ぎ易い。一瞬一瞬の間に死へ近づいて行く。肉体は地水火風の四元素に依存し、細かく見れば生住異滅の変化に追いたてられている。お前達、今こそ、これら生住異滅の四つの変化が掴まえることができない無相の世界であると見極めて、外界に振り回されることがあってはならないのだ。


〔示衆〕7-1


問い、「四種無相の境」とはどのようなものですか?」

師は云った、「お前達の一念の疑の心は、(四大の内の)堅く凝った地によって妨げられるように生まれたものだ。

お前達の一念の愛着の心は、(四大の内の)水に溺れるようにして生まれたものだ。お前達の一念の怒りの心は、(四大の内の)火に焼かれるようにして生まれたものだ。前達の一念の喜びの心は、(四大の内の)風に吹き上げられように生まれたものに過ぎない。

もしこのように会得できれば、疑、愛着、怒り、喜びの心に振り回されず、逆にどこでもそれを使いこなすことができるだろう。

(般若経で説くところによると)仏の神通力によって、国土が六種に感動し、東に踊り西に沈み、西に踊り東に沈み、南に踊り北に沈み、北に踊り南に沈み、辺(ほとり)に踊り中に沈み、中に踊り辺(ほとり)に沈んだと言われる。また仏菩薩の神通力では水上を地上のように歩くことができると言われる。どうしてこのようになるのだろうか?。

それは肉身を構成する四大は夢や幻のように実体がない、空なるものだと分かっている為である。

お前達、今お前達はわしの説法を聴いているが、聴いているのは肉体ではない。それを動かし用いているもの(主体=脳)だ。そのように理解できれば、死ぬも生きるも自由になるだろう」。

〔示衆〕7-2

わしの見るところでは、憎愛の心が無いから嫌うようなものは何も無い。お前達が若し凡俗を嫌って聖を愛したとしても、聖は単なる名前に過ぎない。

修行者の中には五台山に向いて文殊菩薩を求める者がいるが、既に間違っている。五台山には文殊はいない。

お前達、文殊に会いたいか。今わしの目前で躍動しており、終始一貫して、一切処に疑うことのできない君達自身、それこそが活きた文殊なのだ。

お前達の差別を超えた智慧の世界が一切処にあって真の普賢菩薩なのだ。

お前達の一念心が、自らの束縛を解いて、いたるところで解脱するのが観音三昧の法である。

これらの三つの働きは互いに主となり従となって、その発現は同時である。一が即ち三、三が即ち一である。これが分かれば、経典を読んでも問題ないのだ。


〔示衆〕8-1


師は皆に説いて云った、「今仏法を学ぶ人は、自分を信じなくてはならない。外に向って求めてはならない。そのようでは下らない型にはまって、正邪をはっきりさせることはできない。

祖師や仏は教義上の文句に過ぎない。もし人が一句をことさら意味ありげに説くと、君達はすぐ疑いもたついて、見当違いに尋ね回って、忙然とする。大丈夫たる者は、やたらに政治や是非、女や金のような世俗の無駄話をして日を過ごしてはならない。

わしのところでは、出家であれ俗人であれ、どんな者が来ようと、ことごとく見抜いてしまう。たとい何処から出て来ようと、ただ言葉や文句を並べ立てるだけでは皆な夢や幻のようなものだ。

かえって、言葉や文句に振り回されずそれを使いこなす人こそが諸仏の玄旨(げんし)を得た人といえる。仏の境涯は自ら自分は仏の境涯であると言うことはできない。かえってこの無依の道人こそが、言葉や文句に振り回されずそれを使いこなしているのだ。

若し誰かがわしに仏を求めるならば、わしは清浄なる仏の境涯を演じる。若し誰かがわしに菩薩を求めるならば、わしは菩薩の慈悲の姿を演じて菩薩のように振舞おう。

若しわしに菩提を求めるならば、わしは浄妙の境地を演じるし、涅槃を求めるならば、わしは寂静(じゃくじょう)の境地を演じて涅槃の境地を示す。

このように境地はいろいろ違っても、主人公としての人は同じだ。相手に応じて姿を現すことは、あたかも水面に写る月影のようなものだ」。

〔示衆〕8-2

諸君、もし君達がちゃんとしたいならば、まず大丈夫の気概を持たねばならない。他人の指示によって動くような指示待ちのぐず人間になったら駄目だ。

ひびの入った容器に貴重な醍醐(だいご)を貯えることはできない。それと同じで、大きな人間は、何よりも他人に惑わされるようではならない。どこにいようとも主体的に生きれば、そこが真実の場となるのだ。

誰がやって来てもその人の指図を受けて惑わされてはならない。お前達に一念の疑心があればすぐ魔が入りこむ。菩薩でも疑心があれば、生死の魔が付け込むのだ。まずなによりも念慮を息(や)めることだ。

まして外に向って求めてはならない。物がやって来たら知性の光を当てて照らし出せ。お前達は現今働かせているものを信じないとならない。一箇の事はそれ以外に子細は無いのだ。

お前達の一念心が迷いの世界である三界を作り出し、それが外縁と外境に応じて六塵となるのだ。お前達が今ここで働かせているもののどこに不足するところがあろうか。

一刹那の間に、浄土に入り、穢土に入り、弥勒の楼閣にも三眼国土(さんげんこくど)にも自由に入ることができる。

このように大丈夫の人は至る所に遊歴するがそれらが単なる実体が無い空名に過ぎないと見てとらわれることはないのだ。


〔示衆〕9―1


問い、「三眼国土(さんげんこくど)とはどのようなものですか?」。

師は云った、「わしはお前達と共に、浄妙な世界に入ると、清浄衣を着て法身仏を説く。又無差別な世界に入ると、無差別衣を着て報身仏を説く。又解脱の世界に入ると、光明衣を着て化身仏を説く。三眼(さんげん)国土(こくど)もこれと同じようなものである。こちらの在り方に応じて変化する実体の無いものに過ぎない。

教義上から言えば、法身仏が体であり、報身仏と化身仏はその用(働き)である。しかし、わしの見るところでは、法身仏は(抽象的な存在なので)説法することはできない。だから古人も『三身仏は仏教の教義から出てきたもので、仏国土はその教義から設定したものだ』と云っている。

このように、法性の仏身とか、法性の仏国土とか言っても、仮に措定された理念やそれに基づいて考えられた概念的な世界に過ぎないのだ。空っぽの拳に黄葉を握って子供を騙すようなものだ。ハマビシや枯骨をいくらしゃぶっても何の汁も出てこない。これと同じだ。

仏法は心を離れて外に求めても無い。だからと言って、無いものを心内に求めても無い。一体何を求めようとするのか」


〔示衆〕9―2

お前達は諸方で「仏道には、修が有り証が有る」と言っているが間違ってはならない。たとえ修習して得たものがあったとしても、それは全て生死の迷いの原因となるだけだ。

お前達は六度万行を修めたと言うかも知れない。しかし、わしから見れば、それは皆業造りだ。 仏を求め法を求めるのは、地獄へ落ちる業造り、菩薩を求めるのも迷いの行為、看経(かんきん)看教(かんきょう)もまた迷いの行為に過ぎない。

仏や祖師とは「無事の人」のことなのだ。「無事の人」になれば、迷いの営みも無為の悟りも、共に清浄の業となるのだ。 世の中には馬鹿坊主がいて、腹が一杯になるまで飯を食って、坐禅観行(かんぎょう)し、念慮の働きを押さえ込み、喧騒を嫌い静寂を求める。しかし、これは外道(げどう)の教えである。

これについて祖師である神会禅師は「お前達がもし心の働きを止めて静寂の境地を看(み)、心を働かせて外界を照らし、内に収めて清澄にし、心を凝らして禅定に入るならば、これはみな迷いの行為である」と言って北宗禅を批判している。

今このように聴法しているお前達の真の自己(脳、健康な脳)をどのように修習させ、証悟、荘厳しようとするのか。真の自己(人=脳)は修証できるようなものではない。また荘厳できるようなものでもない。

しかし、もし真の自己(脳、健康な脳)を荘厳させたならば、それは一切のものを全て荘厳することができるだろう。お前達、ここを間違えてはならない。


〔示衆〕9―3


修行者達よ、「お前達はこのような老師の言葉を鵜呑みにして、これが真の道だとし、「これが善知識の不思議なところだ。自分達のような凡夫が、こういう偉い老師の言葉を敢えて推測などしてはなるまい」などと言う。

「愚か者め!お前達は一生こんな了見でせっかく揃った二つの目玉を台無しにしている。まるで張った氷の上を歩く驢馬のようにびくびくし、「口の禍は怖いから偉い老師の批判なぞはとてもできない」と言う。

諸君、大善知識であってこそ、悪口の報いなど恐れることなく、敢えて仏祖を毀(そし)り、天下の権威を批判できるのだ。大蔵経典に捉われている人を排斥し、青二才のような諸学者を罵り、順逆のあらゆる角度から真の人間を求めるのだ。

わしも長い間、遠慮なく、多くの悪口を言ったり批判をして来た。しかし、その報いがあったかどうか今考えてみても、芥子(けし)ほどもそのような報いに思い当たることはない。

もし花嫁のように小心者の禅師ならば、こんなふうにすると、直ぐお寺を追い出されて、飯も食わせてもらえず、不安でおちおちしておられないだろう。

禅宗の昔の先輩達は、何処に行っても人に理解されず、追い払われたものだ。そうされて、始めて貴いことが分かるのだ。もし何処に行っても人に受け入れられるような好人物なら、何の役に立とうか。

我々の先輩は気概があったため、迫害されても、獅子が一声吼えれば、野犬を気絶させるように大いに言うべきことを言ったのである。

〔示衆〕9―4


諸君、諸方の指導者達は、「仏道には修すべき道と、証すべき法が有る」と説いている。お前達は一体どんな法を証悟し、どんな道を修しようというのか。 お前達の今の働きに何が欠けていて、何処を補う必要があろうか。

後進の若い修行者達はそこが分からず、直ぐにこんな間違った禅師を信じる。 彼が「仏道では教理と修行が相応し、三業を慎んで始めて成仏できるのだ」などとつまらん説教をして人々を虜にすることを許している。このように説く者は春の霧雨のように多い。

古人は、「路上で達道の人に逢ったら、彼に道を説いて道に向うように言う必要はない」と言っている。そこで、「もし、人が道を修めようとすれば、道にこだわるため、道は行われない。逆に、様々な邪境(じゃきょう)が先を争うように出てくる。しかし、一旦智剣が出現すれば邪境(じゃきょう)を切り払って一物も無くなる。それはあたかも照らす前に暗処がはっきり照らし出されるようなものだ」とも言っている。

だから古人はそこを、「平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)」、と言っている。修行者諸君よ!お前達は一体何を求めているのか? 今わしの面前で聴法している無依の道人は、明々白々として、未だ曽って少しも欠けたところがないじゃないか。お前達がもし、祖仏と同じでありたいと願うならば、ただこのように見究めさえすれば良いのだ。

お前達の心が本心と異なることが無い時、それを活祖と言うのだ。心がもし本心と異なるならば、本体とその働きは別となる。心が本心と同じであれば、本体とその働きも同じになるのだ。

[示衆]10-1

問い、「心と心が異ならない処とはどういう処ですか?」。

師は云った、「お前達が質問しようとした途端に心と心の本体が分かれ異なってしまうのだ。

修行者達よ、間違えてならない。世間・出世間の諸法は、皆な自性は無く、またそれを生ずるものも無い。ただ実体の無い概念が有るだけだ。それにもかかわらず、お前達はひたすらその空なる概念を実在するものと思い込んでいるが、大間違いだ。それはこちらの在り方に応じて変化する実体の無いものに過ぎない。

菩提、涅槃、解脱、三身、境智、菩薩、仏など多くの実体のない概念に向かってお前達は何を求めようとするのか。全ての大蔵経典も不浄を拭う反故(ほご)紙に過ぎない。

仏は我々と同じ空蝉(うつせみ)の身、祖も年老いた僧侶に過ぎない。お前達はちゃんとした母親から生まれた男ではないか。

もしお前達が仏を求めれば、仏という魔のとりこになるだろう。 仏を求めれば、祖という魔のとりこになる。このように何かを求めれば、皆な苦しみになるばかりだ。何も求めず無事でいるのが一番良い」。

〔示衆〕10-2

頭を丸めただけの坊主の中には、修行者に向って、「仏は究極の完成である。三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)という長い間修行をし徳を積んだ結果、始めて成道されたんだ」と言う者がいる。

「お前達、もし仏は究極の完成であると言うならば、どうして80歳の時クシナガラの沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で横に寝て死んでしまったのだ。仏は今何処にいるだろうか。これではっきりわかるだろう。仏も我々の生死と同じなのだ」。

それでもお前達は、「仏は十二相八十種好(しゅごう)という常人にない瑞相を持たれた方だ」と言うかも知れない。

それなら同じ瑞相を持つとされる転輪聖王(てんりんじょうおう)も如来だろうか。これではっきりするだろう。仏もまた空蝉の身であることが。

古人も云った、「如来の全身に具わる瑞相は、人々の思い入れに応えるためである。人々が断見に落ちることを恐れて、仮に付けた虚名に過ぎない。 三十二相八十種好と言っても実体の無い空名に過ぎない。ブッダの肉体は悟りの本体ではない。無相こそが真の覚体(かくたい)なのだ」と。


〔示衆〕10-3

お前達は「仏の持つ六神通は不思議だ」と言うかも知れない。一切の諸天、神仙、阿修羅、大力鬼もまた神通力がある。だからといって彼らも仏だと言えるだろうか。お前達、思い違いをしてはならない。

阿修羅が天帝釈(てんたいしゃく)と戦って敗れた時、八万四千の眷属を引き連れて、蓮糸の孔の中に入って隠れたと言われる。これは仏と同じ神通力ではないか。

しかし、今わしが言ったのは皆マジックのようなものに過ぎない。仏の真の六神通とはそのようなものではない。

色界に入っても色惑を被らず、また声界(しょうかい)、香界、味界、触界(そくかい)、法界の六境に入ってもそれに惑わされない。

そのため、色声香味触法の六境が空で実体がないと見極めれば、何物にも依存しないこの道人を束縛することはできない。彼こそ五蘊(ごうん)の心身という煩悩の固まりであっても、大地を行く神通者なのだ。


〔示衆〕10-4

「お前達、真の仏には形が無く、真の法には相(すがた)は無い。それにもかかわらず、お前達はひたすら幻のようなものを、あれこれ思い描いている。

たとえ真の仏のようなものを求めることができたにしても、そんなものは皆な野狐が化けたようなもので、決して真の仏ではない。そんなものは外道の見方だ。

真の修行者は、決して仏を認めない。菩薩や阿羅漢も認めず、この世で有り難そうなものを問題としない。そんなものから独りはるかに超えて外物に依存することはない。たとい天地が引っくり返ってもこの信念に変わりはないのだ。

たとえ彼の目の前に十方の諸仏が現われても、少しも喜ばないし、三途地獄(さんずじごく)がパッと現われも、少しも恐れない。どうしてこのようになるのだろうか。

わしが見ると、全ての存在は空相であって条件次第で有に変ったり、無のままである。この迷いの世界は唯だ心意識によって造られるのである。夢や幻、空中の華のような実体のないものに心を煩わすことはないのだ。

修行者達よ、今目の前で聴法している人だけが有って、火に入っても焼けず、水に入っても溺れない。三途地獄(さんずじごく)に入っても、花園に遊ぶようだし、餓鬼畜生道に落ちても苦しみを受けることはない。

どうしてこのようになるのだろうか。それは何一つ嫌うものが無いからだ。

宝誌和尚も『汝がもし聖を愛し凡を憎めば、迷いの海に浮沈するだけだ。

煩悩は心が作るものであるから、無心であるならば煩悩に縛られることはない。姿形(すがたかたち)を分別することもなく、自然に道を体得できる』と言っているじゃないか。

お前達、脇道へそれてあたふたと学ぶならば、永遠に迷いの世界から抜け出ることはできないぞ。それよりは無事で何の造作もせず、僧堂の禅牀(ぜんじょう)の上に坐っていた方がましだ。


〔示衆〕10―5


お前達、諸方から修行者がやって来て、道場主と修行者が対面し問答を交わすことを考えてみよう。その後修行者はさっそく一句をもち出して、目の前の和尚(道場主)の力量を試みようとする。

修行者はいわくありげな言葉を持ち出して、和尚の口先に突き付け、「さあ、和尚さん、これが分かりますか」と言って和尚を試す。和尚はそれが自分を試そうとする探り道具だと知ったら、それを引っつかんで便壷に放り込む。すると修行者はたちまちおとなしく素直になる。

それから彼は和尚の教えを求める。和尚は前と同じように修行者を勘破し奪い取って許さないと、修行者は、「素晴らしい!さすがは天下の大和尚だ」と言う。すると、和尚は「お前さんはもののけじめが何も分かっていないな」と云う。

その和尚が真の善知識であれば、何か近くにある物を取り出し、修行者の面前でひねくって見せる。修行者はその意図が分かると、一つ一つ主体的にこなして、それに惑わされることはない。

そこで和尚は本身の半分だけを表わして見せると、修行者はすかさず一喝する。和尚は今度はいろんな言葉で修行者を揺さぶる。修行者が「もののけじめが分からない老いぼれ坊主だな」と言うと、和尚は、「お前さんは真の修行者だ」と感心したように褒める。 

ところが、現今の諸方の指導者達の多くは、邪正を見分ける力がない。修行者が来て、菩提涅槃、三身の境智などについて質問すれば、めくら和尚は直ぐにああこう理屈を付けて解説する。

それに満足しない修行者に批判され罵られようものなら、直ぐ棒を取って、「お前は無礼なことを言う奴だ」と打つのだ。このような指導者は元々指導者としての眼(まなこ)は無いし、修行者を叱る資格もないのだ。

また、もののけじめもつかない坊主がいて、右や左、東や西とくるくる向きを変え、いい天気だ、いい雨だ、いい灯籠だ、いい露柱だと説き廻る。

見るがいい、こんな指導者の眉毛は抜け落ち、もう何本も残っていないだろう。彼等に指導者としての機縁や力量があるだろうか。修行者はここが分からないため、ノイローゼになってしまうのだ。

このような指導者達は皆野狐や妖怪変化の類(たぐい)だ。まともな修行者から、「あの馬鹿坊主がまた天下を惑わしている」と苦笑されるだけだ。


〔示衆〕10-6


お前達、出家はともかく修行が肝要だ。わしの場合、最初の内は戒律の研究をしたり、経典を色々読み漁ったものだよ。しかし、そのようなことは世間の病を治す薬や広告の文句のようなものだと分かった。そこで、全てを投げ打って、禅の道に参じたのだ。

後で、大善知識(黄檗希運禅師)に遇って、始めて悟りの眼がはっきり開き、天下の老和尚どもの悟りが本物かどうかを判別できるようになった。この能力は生まれつき会得したものではない。体究練磨を重ねた結果、ある時はっと悟って目覚めたのだ。

お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ。

内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺せ。

そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、突き抜けたように自由に生きることできるのだ。


〔示衆〕10―7


諸方の修行者達で、何物にも依存しないでわしの前に出て来るような者はいない。わしはそういう男(物に依存して出て来る者)を見たらすぐ叩く。手ぶりで出て来れば手ぶりを叩き、言葉で来れば言葉で叩き、眼で来れば眼で叩くのだ。

しかし、未だに誰一人として何物にも依存せず、独脱してわしの前に出て来るような者はいない。皆な古人のつまらない言句に依存しているが、わしのところには一つの法も人に与えるものは無いのだ。

ただお前達の病(やまい)を治し、束縛を解こうとするだけである。お前達諸方の修行者よ、試しに物に依存しないで出で来い。わしはお前達と一緒にいろいろ考えて見たいのだ。

しかし、十年経っても五年経っても、そういう男は一人も現れない。現れるのは皆草木に取り付いた野狐の精霊のようなものばかりだ。彼等は糞の塊のようなつまらない古人の言句をみだりに口にしているだけだ。

盲坊主め! いたずらに諸方の信者からの施物を消費し、わしは出家者だと言って、誤った考え方をしている。そのような者達に対し、わしは「無仏無法、無修無証なのだ」と言いたいのだ。

それなのにお前達は脇道にそれて一体何を求めようとするのだ。盲ども! 頭の上に頭を置くような無駄なことをするな。お前達に一体何が不足していると言うのだ。

お前達、お前達自身が今現に見聞きしている働きが、そのまま祖仏に他ならない。

お前達はそれを信じることができないため、ひたすら外に向って求めている。間違ってはならない。仏法は外に向って求めても得られるものではない。だかといって内に求めても得ることはできないのだ。

お前達、こう言うわしの言葉に飛びつくよりは、内にも外にも求めず、無事の境地に静かに安らいでいることが一番だ。

すでに起こった雑念を相手にせず、余計な雑念も起こさなければ、お前達が十年行脚(あんぎゃ)して修行するよりずっとましだ。


〔示衆〕10―8

わしの見るところでは何も面倒なことはない。ただふだん通りに、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)し、無事にして時を過ごすだけだ。

諸方からやって来るお前達、皆な下心を持って仏を求め法を求めて、解脱して、三界を出離しようとする。

お前達は愚か者だ。三界を出て、一体何処に行こうというのか。仏とか祖師とか言うものはただ奉っておくだけの名称に過ぎない。

お前達は、三界を知りたいか。それは今わしの説法を聴いているお前達の心を離れては存在しない。

お前達の貪欲の一念が欲界であり、お前達の瞋恚の一念が色界であり、お前達の愚痴の心が無色界である。これらはお前達の家に備え付けの家具なのだ。

三界は自ら自分のことを三界だとは言わない。今わしの目前でありありと一切のものを照らし出し、全世界を品定めしているお前達こそが、三界に三界という名前を付けているのだ。


〔示衆〕10―9


お前達、地水火風の四大元素から成るこの肉体は無常である。

さらに、脾胃肝胆(ひいかんたん)や毛髪爪歯なども条件によって生じた空なるものにすぎない。

お前達の雑念の動きが静まり心が安らいだ時に、それを悟りと言い、雑念が静まらない時には、無明と言うのだ。

無明には実体はなく、始めも終りもない。もしお前達の雑念の動きが静まらなければ、無明の樹に登って、六道四生に輪廻し、角を持つ獣(けもの)に生まれることにもなる。

逆にお前達の雑念の動きが静まれば、そのまま清浄法身の境涯だ。一念が不生ならば、そのまま悟りの樹に上ることになる。

そうなれば三界に自由に神通変化し、意のままに化身し、法の安らぎに浸る喜びを味わい、身体から光が出て自ら照らすようなことになるだろう。

 そんな時には、心の欲するままに、千着の美服をまとい、百味の美味を口にし、不慮の病に罹ることもないだろう。

しかし、その「菩提」も実体がないものだから、菩提というものを得ることもないのだ。

お前達、大丈夫たる者が更に何を疑うのか。今目前で躍動しているもの、それを誰だと思うのか(お前達自身ではないか)。

これをしっかり掴んだら、直ぐに活用して、名前に執着することもない。それが仏法の玄旨だ。このように納得できれば、嫌うようなものは無くなる。

このところを、古人魔拏羅(まぬら)尊者は、「心は色々の対象に万随って転じ動くが、転変する処はまことに幽玄である。心の流れに随ってその心性を見究めれば、喜びも憂いも無い」と言っている。


〔示衆〕10―10

お前達、禅宗の見解では、死ぬか活きるかは、自然に決まるものだ。修行者はこれを大切にしないといけない。

例えば師家(主)と修行者(客)が対面する時、必ず問答をする。この時、師家(主)は客の力量に応じて対応する。ある時は本体丸出しで発出したり、ある時は方便を用いて笑ったり怒ったりする。或る時は半身しか現わさず、獅子に乗った文殊として現れたり、象に乗った普賢として現れる。

もし力量ある真の修行者なら、一喝して、べたつき身動きできなくなるような古人の言句を師家に突きつける。しかし、師家はそれが単なる道具だとは気付かず、すぐそれに乗って、あれこれ格好をつける。それを見て修行者はすかさず一喝する。

しかし、師家は未だ道具を手放そうとはしない。こんな場合は不治の病で治しようが無い。こういうのを「客が主を看(み)る」と言う。

別の場合では、師家が何の道具も用いず、修行者が質問する度に質問するところを奪い取ってしまうことがある。修行者は奪われても、奪われても必死で質問に執着し手放そうとしない。このような場合は「主が客を看(み)る」と言う。

また或る場合には、修行者は清浄そうな格好で師家の前に現れる。師家はこれが単なる道具立てだと見破って、それを掴んで穴の中に投げ捨ててしまう。これを見て修行者は、「素晴らしい善知識だ!」と褒める。

すると師家は、「ちぇ!ものの善悪も分からない奴め!」と言う。すると修行者はさっと礼拝する。このような場合は、「主が主を看(み)る」と言うのだ。

また或る場合には、修行者が首枷(くびかせ)を披(つ)け鎖を引きずって、師家の前に出る。善師家は彼に一組の首枷や鎖を更に巻きつける。何も分からない修行者は喜ぶ。両者ともわけがわからず相手を見分けることができない。このような場合、「客が客を看(み)る」と言う。 

お前達よ、わしが挙げた例は皆、邪道や異端を見分け、正邪をはっきりさせるためである。


〔示衆〕10―11

お前達、真の道心を起こすのは至難で、仏法は幽玄である。しかし、努力すれば相当のところまで分かるものだ。わしは一日中、皆に説いているのに、お前達は一向に気に止めない。

千べん万べんも、自分の足の下に踏み過ごしているものは真っ黒けで、姿形は全く無く独自の輝きを発して明らかである。しかし、修行者はこれを信じることができず、観念や概念で理解しようとしている。

歳が50才近くになっても、ひたすら死体のような肉体を担ぎ脇道へ走り回っている。そんなことでは死後、閻魔の前で草鞋銭(わらじせん)を請求されることになるだろう。

お前さん達、わしが仏法は外には無いと説けば、学人はその真意が分からない。

今度は内に求めようと、さっそく壁に向って坐禅し、舌を上顎(じょうがく)に当てて、湛然として静かな池の水のように意識を動かさない。これを祖師門の仏法であると思う。それは大いに間違っている。

もし、君が「不動清浄の境地」を良いと考えるならば、無明を自己の主人と認めるようなものだ。古人は、「湛湛(たんたん)たる暗黒の深い坑(あな)、これこそ真に恐ろしいところだ」と言っている。それはこのことを意味している。

これと逆に、もしお前達が動くもが正しいと考えるならば、一切の草木もよくな動くだろう。まさかそれが悟りだと言えるだろうか。動くのは四大の中の風大、動かないのは地大である。動と不動は空であり、ともに固定・不変の自性は無い。

もしお前達がそれを動く処で<それ>を捉まえようとすれば、<それ>は不動の処に立つだろう。それを譬えれば、池に潜む魚が波しぶきを立てて躍り上がるようなものだ。大徳、動と不動とは単なる二種の対象に過ぎない。

その本質は無依の道人が、動と不動を操作しているところにある。



〔示衆〕10―12


諸方から修行者がやって来た時、わしの処では三種類の根器に分けて指導する。もし中下根器の修行者が来たならば、わしは彼の我意を奪って其の法(理念)は奪わない。中上根器の修行者が来たならばば、わしは彼の我意と法(理念)を倶に奪い取ってしまう。

もし上上根器の修行者が来た時には、わしは彼の我意、法(理念)、人(主体)のどれも奪い取ることはしない。修行者がありのままに自由に振舞うにまかせる。

もし、人並み外れた優れた力量を持つ修行者が来た時には、わしは全力を挙げて対応し、ランク付けはしない。

諸君、ここまで来ると、修行者が全力を発揮した所には風も通らず、瞬間的激発によって電光石火のように過ぎ去るのだ。

もし修行者の眼が疑念のため、少しでも動くならば、もうそれとは無関係になる。心をさし向けるとかけ違い、一念を動かせば外れてしまう。誰かこれが分かる人がいるとすれば、それは目前にいる君達に他ならない。


〔示衆〕10―13


修行者達よ、君達は糞袋を担いで、脇道に駆け回って仏法を探し求めている。この今、そのように探し求めている者が何者であるか分かるか。それは勢い良くピチピチしているがどこにも根を張っていない。

それをかき集めようとしても聚(あつま)めることができない。払い散らそうとしても分散することはない。求めようとすれば遠ざかり、求めなければちゃんと目の前にあって、その霊妙な声は耳に聞こえてくる。もしこれが信じられないならば、たとえ百年もの長い年月、刻苦修行しても無駄になるだろう。

修行者達よ、一瞬のうちに、蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)に入り、毘廬遮那(びるしゃな)国土に入り、解脱の国に入り、神通の国に入り、清浄な国に入り、法界に入る。また浄穢(じょうえ)、凡聖、餓鬼畜生の世界に入る。しかし、どこを尋ね求めて見ても、生死は見えない。ただ空しい概念があるだけだ。

幻覚や空中の花のような捕まえることができないものを捕まえようと、無駄な労力を使ってはいけない。利害得失、是非善悪などの分別は、皆一辺に投げ捨てろ!


〔示衆〕10―14


諸君、わしの仏法は麻谷(まよく)和尚、丹霞(たんか)和尚、道一(どういつ)和尚、廬山と石鞏(せきぎょう)和尚以来、はっきりと相承(そうじょう)して伝えられたものである。彼等と同じ道を歩んで来たものだ。

しかし、誰もその道を信じる者は無く、皆なことごとく誹謗したものだ。たとえば道一(どういつ)和尚の宗風は、純一で混じり気が無かった。修行者は四、五百人もいたが誰もその真意を見抜く者がいなかった。

廬山和尚の行動は、自在真正であり、順逆縦横で極まるところが無く、諸方から来た修行者はその辺際を窺い知ることができず皆忙然としていた。

丹霞(たんか)和尚の行動は、手中の珠を翫ぶこと自在であったように自己を用いること自在であり、道を求めてやって来た者は、皆罵られた。

麻谷(まよく)和尚の行動は、苦いこと黄檗(キハダ)のようであり、皆和尚に近づくことができなかった。

石鞏(せきぎょう)和尚は、常に弓を張り箭をつがえて修行者を試みたので来た者は皆恐れたものだ。


〔示衆〕10―15

わしの今日のやり方は、成住壊空の変化を思いのままにし、神変(じんぺん)を自在にこなし、どんな処に入っても、いたる処で無事である。それを環境が換えることはできない。

もし道を求める者が来れば、私はその者を一見して見抜くが、彼は私を分からない。

私が数種類の衣を着て出ると、修行者はそれに理屈を付けて理解しようと、私の言う事を何とかして聞こうとする。困ったことである。

眼の無い馬鹿坊主は、私が着る衣を手に取って青だ、黄だ、赤だ、白だとする。私がその衣を脱いで清浄な境地に入って清浄衣を着れば、弟子はそれを見て、すぐ欲しいと思う。

私がその清浄衣を脱ぎ捨てると、弟子は失心し、忙然となる。そして狂ったように走り回って、私に衣が無くなったと言う。

そこで私は彼等に向って、「君達は私が着る衣の方に気を取られているが、その衣を脱いだり着たりしている当人が何か分かっているのか?」と聞くと、ハッとし振り向いて私に気付くという始末だ。


〔示衆〕10―16


諸君、衣に気を取られてはならない。衣は自ら動くことはできない。人がその衣を着るのだ。

衣には清浄衣、無生衣、菩提衣、涅槃衣、祖衣、仏衣など色々ある。修行者よ、こうした名前や文句は、皆対象に応じて着せかけたものにすぎない。我々は下腹部を震わせ、歯をカチカチ合わせて声を出し言葉にする。こんなものは明らかに夢幻のように実体がない。

諸君、外には音声言語を発し、内部では心が働く。心意識が働いて想念が起こるが、これらは全て皆な皆対象に応じて着せかけた衣のようなものにすぎない。

ところが君達はただ他人が着ている衣だけに気を取られ、それを真実だと考えている。そんなことでは、たとえ無眼の長年月修行しても、衣について詳しくなるだけだ。それでは、迷いの世界にさ迷って、生死輪廻することになる。

それよりは、いつも逢っているにもかかわらず分からない、共に語っているのにその名前すら知らない「真の自己」を坐禅によって究明して、「無事であること」が一番良い。


[示衆]10―17

当今の修行者が駄目なのは、言葉に捉われて理解しようとするからである。大判のノートにつまらない和尚の言葉を書きとめ、それを三重五重と大事に袱紗に包んで、人に見せないようにする。

そして、これは玄妙な仏法の奥義なのだと言って、大切そうに保存する。大いに間違っている。

眼なし坊主め、お前達は枯骨のようなもの(記録したもの)を舐めているが、そんな枯骨から美味い汁は出て来るはずはない。

世の中にはわけの分からない者がいて、経典の文句を色々考え推量して一つの解釈を作り上げる。

まるで糞の塊を口に含んでから、別の人に吐き与えるようなものだ。それはまるで俗人が口づてに伝えるようなものだ。それでは一生を虚しく過ごすだけだ。

俺は出家だと偉そうに言っても、他人から仏法とは何かと尋ねられると、すぐ口を閉じて言葉が出ない。眼には眼ヤニが付いてまるで煙出しの窓のように黒く、口はヘの字に結んだままだ。

このような連中は、たとえ弥勒菩薩が将来下生して来ても、救いにあずかることもない。別世界に移送され、地獄に落ちて苦しむことになるだろう。

〔示衆〕10―18


 諸君、君達は修行のためあたふたと諸方に行く。一体何を求めて足の裏が平になるまで歩き回るのか。君達が求める仏は無く、成就すべき道は無く、得られる法も無いのだ。

もし、外に形ある仏を求めたら、君達とは似ても似つかないものだ。即心即仏の本心を知りたいと思っても、心と仏はぴったり一致しているものでもない。だからといって別ものでもない。それが<即心即仏>なのだ。

諸君、真の仏には形は無い。真の道には本体は無い。真の法は無相である。真の仏・道・法の三つは渾然と一つに融合しているのだ。

これを弁別して明らかにすることはできない者は「忙忙と意識が混乱した迷妄の衆生」と呼ぶしかない。

〔示衆〕11

問い、「真の仏、真の道、真の法とはどのようなものでしょうか? どうか、お示し下さい」。

師は言った、「仏というのは清浄なる心のことである。法というは心の光明のことであり、道とは至る所を照らす清浄なる光のことである。この三つはそのまま一つである。真の仏、道、法といっても空なる名前で概念に過ぎないから実体はないのだ。

真の修行者の心の一念一念は間断してとぎれることはない。達磨大師がはるばる西の方インドから来たのは、ただ人に惑わされることのないような人を求めるためであった。

達磨は、後に二祖に会う。二祖は達磨の一言の下にたちまち悟り、今までの修行が虚(むな)しかったことを知ったのだ。わしの現在の悟りの境地は、祖仏と同じものである。

もし第一句で悟れば、祖仏の師となるだろう。第二句で悟れば、人天の師となるだろう。しかし、第三句でやっと悟るくらいだと、自分も救うことはできない」。


〔示衆〕12-1


問い、「達磨大師がインドからやって来た意図は何ですか?]

師は云った、「若し何らかの意図が有ったなら、自分さえ救うことはできない」。

「何の意図も無くやって来たのでしたら、どうして二祖慧可は法を得たのですか?」。

師は云った、「得たというは得なかったということなのだ」。

「得なかったというのでしたら、得なかったという意味は何でしょうか?」。

師は云った、「君達があらゆる処に向って求めることを止めないためそんな質問をするのだ。だから祖師も、『こらっ!立派な男が頭(こうべ)があるのに頭を探すようなことをするな』と言っている。

君達がこの一言に自らの光を内に向けて、外に探し求めることを止めるならば、自己の身心は祖仏と同じであると分かり、直ちに無事安楽になるだろう。それを、法を得ると言うのだ。

諸君、わしは今、やむをえず、こんなつまらぬ話をすることになったが、誤解しないようにして欲しい。わしの見地からすれば、本当は面倒な理屈は何も無い。働かせようと思えば働かせ、思わなければ休ませるだけだ。


〔示衆〕12-2


「六度万行こそは仏法だ」とよく言われる。しかし、わしはそうは思わない。そのようなものは単なる荘厳門(しょうごんもん)や仏事門であって、仏法の本質ではない。

たとい戒律を厳密に守り、油を捧げてこぼさないような綿密な修行を積んでも、法を見る眼が明らかでないならば、その負債を返さないとならない。そのため、死んで閻魔大王の前に引き出される時、飯代を請求されることになるだろう。

何故だろうか。「出家しても仏法の道理を明らかにできなかったなら、生まれ変わって身を木耳(きくらげ)に変えて、長者が八十一になるまで、供養の恩を返した」という話しがある。

法を見る眼が明らかでないならば、そのようにして負債を返さないとならないのだ。あるいはまた孤峰に独り住み、一日一食、常に坐して横臥せず、修行に励んでも、皆な迷いの業を造るだけに過ぎないのだ。

あるいは自分の頭目髄脳(ずもくずいのう)や土地、家や妻子、象馬(ぞうめ)七珍など全ての財産を布施しても、それは自分の身心を苦しめるだけで、還って苦果を招くだけだ。それよりも、「無事で、純一無雑(むぞう)でいる」のが一番だ。

たとえ十地の境地を達成した菩薩も、この無事の修行者の悟りの足跡を探し求めても窺い知ることはできないだろう。

何故このようになるのだろうか。今ここでわしの説法を聴いている君達道人(真の自己=脳)の働きは、どこにも跡かたを残さないためである。

〔示衆〕13-1


問い、「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)は十劫(じっこう)もの長い時間道場で坐禅を続けたが、仏法は現前せず、悟りを開くことができなかった」とのことです。これは一体何故でしょうか?ご教示をお願いいたします」。

師は云った、「大通とは、自己が到るところに於いて万法が無性であり、無相であるという理(ことわり)に達するのを大通と言うのだ。

智勝とは、到るところに於いて迷わず、一法をも得ないのを、名づけて言うのである。仏とは自己の心が清浄であり、その光明が法界に透徹するを、名づけて言うのである。

十劫(じっこう)もの間道場で坐禅を続けたというは、十波羅蜜を行じたということ。仏法が現前しなかったというは、仏はもともと不生(ふしょう)であり、法はもともと不滅である。どうして今更仏法が現前することがあろうか。

仏道を成就することができなかったというは、もともと仏である以上更に仏となる必要はない。古人も、『仏は常に世間に在って、しかも世間の汚れた法に染まない』と云っている。

〔示衆〕13-2


諸君、仏となりたいならば、外界に引きずられてはならない。心に意識が生れると種種の法が生れるが、意識が消滅するとその法も消滅する。心が無念無想、無住無着になったら、憎愛揀択など一切の咎(とが)は無いのだ。

世間であろうと出世間であろうと、仏や法はない。またそれが現われることも、無くなることもない。

もし有るにしても、それは皆な名前や文句にすぎず、子供をあやす方便としての薬や看板の謳い文句のようなものである。その文句にしてもそれ自体として意味があるものではない。

それよりも今わしの目前で、はっきりと見聞覚知しているもの(真の自己)こそが、一切の物に名前を付けているのだ。

諸君、修行者たる者は、五(ご)無間(むげん)の罪業を造ってこそ、はじめて解脱できるのだ。


〔示衆〕14-1

問い、「五無間(ごむげん)の業とはどのようなものですか?」。

師は云った、「父を殺し母を殺す。仏身を傷つけて血を出し、教団を破壊し、経像を焚焼する。これが五無間(ごむげん)の業である」。

問い、「その父とは何ですか?」。

師は云った、「無明が父である。君達の一念の心が何処から生滅しているのかいくら探しても分からない。あたかも空中に響く木魂(こだま)が何処で響いているのか分からないようなものだ。そのように、あらゆる処で無事でいるのを、「父を殺す」と言うのだ」。

問い、「それでは母とは何ですか?」。

師は云った、「貧愛が母である。君達の心が欲に占められる時その貧愛の心が空で実体が無いと見て、執着しない。それを「母を害す」と言うのだ」。

問い、「それでは『仏身を傷つけ血を出す』とは何ですか?」。

師は云った、「君達が 清浄な法界の中で、一念の分別意識を働かせること無く、どこも黒暗のような無心の中にいるのを、『仏身を傷つけ血を出す』と言うのだ」。

問い、「それでは『教団を破壊する』とは何ですか?」。

師は云った、「君達が、煩悩とは空で実体無いものだと悟るのを『教団を破壊する』と言うのだ」。

問い、「それでは『経像を焚焼する』とは何ですか?」。

師は云った、「因縁と心と法の三つが空であると見て取って、超然として無事であるのを『経像を焚焼する』と言うのだ。諸君、若しこのような悟りに到達するならば、かの凡とか聖とかの名前に煩わされることが無いだろう」。

〔示衆〕14-2


君達の一念の心は、空拳が指さすものを実在と思い、現象界で妄想している。そして、自らを軽んじ退屈して、「自分は凡夫だが、彼は聖人だ」などと言っている。

馬鹿坊主め、どうしてせっぱつまって、獅子の皮を披(き)て、ジャッカルの鳴き声を立てるようなことをするのか。

大丈夫たるものが、大丈夫の気概も示さず、自己に具わっている本来のものを信じようともしない。ひたすら外に向って求め、古人のつまらぬ言葉に引っかかり、陰陽の占いをあてにして独立できないでいる。

外境に向えば境に引っかかり、存在するものを認めては執着し、至るところに迷って、自分の定見が無い。

諸君、わしの説くところを盲目的に受け取ってはならない。何故か。わしの説くところには典拠は無く、とりあえず虚空に図を描き、それに色付けをしているようなものだからだ。

諸君、仏を究極の者としてはならない。わしから見れば、便所の孔のようなものだ。菩薩や羅漢もすべて手枷(てかせ)足枷(あしかせ)のように人の自由を縛る物である。

そのため、文殊は剣をとってゴータマを殺そうとし、アングリマーラは刀を手にしてブッダに危害を加えようとしたのだ。 

諸君、仏は他に求めて得られるようなものではない。

三乗教や五性(ごしょう)各別の教え、円頓(えんどん)一乗の教えも、皆一時の方便の教えであり、実法ではない。

たとえ有ったとしても、皆なにせ物、表向きのお触書や文字を選んで並べたようなもので、もっともらしく説いたものに過ぎない。

諸君、そう言うと坊主の中には、内面に力を注いで、この世を超える法を求めようとする者がいる。とんでもない間違いである。

もし仏を他に求めれば、その人は仏を見失うだろう。もし、道を他に求めれば、その人は道を見失うだろう。若し人、祖を他に求めれば、その人は祖を見失うだろう。


〔示衆〕14-3

諸君、間違えてはならない。君達がどんなに経論を理解できてもわしは認めない。また、君達が国王大臣であっても認めないし、どんなに雄弁であっても認めないし、どんなに聡明で智慧があっても認めない。

ただ君達が「真正の見解」を得ることを望むだけだ。

諸君、たとい百本の経論を説き明かすことができても、一人の「無事」の坊さんには及ばない。学識があると他人を軽蔑し、優劣を争う。そのため、自我に執着して、地獄に落ちるような苦しみを生むことになるのだ。

善星比丘(ぜんしょうびく)は、仏教の全教理を理解していたが、生きながら地獄に落ち、大地に身の置き所がなかったと言われる。それより無事にして心安らかなのが一番だ。「腹が減れば飯を食い、睡(ねむり)くなれば眠る」だ。

諸君、言語文字の中に求めてはならない。頭を使いすぎれば心が疲れる。冷気を吸えば風邪を引いて良いことは無い。それよりも、一刹那に、あらゆる存在は本来そのものであると知って、三乗の方便教で説く菩薩を超えることが大事なことである。


〔示衆〕14-4


諸君、ぐずぐずと無駄に日を過してはならない。わしもかって、未だ悟りを開くことができなかった時、真っ暗闇の状態だった。

時間を虚しく過ごしてはならないと思うと、腹は熱し気はあせり、波がうち寄せるようにして道を求めたものだ。

後に修行のお陰で力を得て、始めて今日君達とこうして、君達と話合えるようになった。

諸君に忠告したい。決して衣食の為に修行してはならない。見よ!人生は過ぎ易く、善知識には遭い難い。それは優曇鉢羅華(うどんばらげ)の花が三千年に一度しか開かないようなものだ。

君達は諸方でこの臨済という親爺がいると聞いて、出で来て問答を挑み、黙らせてやろうとする。しかし、逆にわしに全体作用されると、挑戦者はパチクリと眼を開き、口を閉じて黙り込むだけだ。

忙然として何をどう答えたら良いのかも分からない始末だ。そんな時、わしは彼に、「巨象の一蹴りに驢馬が堪えることはできない」と言う。

君達はいたる所で、胸を張って、「我こそは禅を会得し道が分かった」と高言する。しかし、そんな者が二、三人束になって来ても、わしに歯が立つはずがない。

「こらー!」お前達はこれくらいの実力しかないのに、到る処で口を開いて、村人達を誑(たぶら)かしている。いつか閻魔大王の前で鉄棒を食らう日が有るだろう。

そんな者は出家とは言えない。皆闘争の世界に落ちてしまうだろう。

〔示衆〕14-5


そもそも仏法の究極の理法は、興奮して議論したり、かん高い声を張り上げて外道の説を打ち破るところにはない。

歴代の仏祖が伝えてきた道は、何も特別なものではない。たといそれらしい教理があるにしても、それは三乗や五性といった人間界や天上界で通用する方便説に過ぎない。

大乗円頓の教えは、そのようなものではない。あの善財童子も求道の旅で全ての善知識に会ったのではないのだ(善財童子は「一超直入如来地」を説く頓悟禅を説く善知識に会ったのではないのだ)。

諸君、間違った心の使い方をしてはならない。『大海はいつまでも死体を留めてはおかない』と言うだろう。

君達は死体(死体のような既成概念)を担いで天下を走り回っている。自分勝手な間違った量見を起こして、本来の心を妨げている。

太陽に雲がかからなければ、その光は天空に輝いて普く照らす。眼にそこひが無いならば、空に幻の花を見ることが無い。(それと同じように死体のような既成概念さえ無ければ本来の心をはっきり見るだろう)

君達、理法のように生きようとすれば、疑念を起こしてはならない。広げれば宇宙いっぱいに満ち溢れ、収めれば髪の毛一本も立たない。はっきりとしていて少しも欠けることがない。

眼にも見えず、耳にも聞こえない。それを何と呼んだら良いだろうか。

古人はそれを、「説似一物則不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と言った。

君達、それを自分の眼で見なければならない。わしにそれ以上何も言う事はない。それを説けば尽きることは無いだろう。各自が力を著(つ)けるほかないのだ!ご苦労さま。