無門関 by ぐっちー

無門関自序 第一則・趙州狗子 第二則・百丈野狐 第三則・倶胝豎指 第四則・胡子無鬚 第五則・香嚴上樹 第六則・世尊拈花 第七則・趙州洗鉢 第八則・奚仲造車 第九則・大通智勝 第十則・清税孤貧 第十一則・州勘庵主 第十二則・巖喚主人 第十三則・徳山托鉢 第十四則・南泉斬猫
第十五則・洞山三頓 第十六則・鐘声七条 第十七則・国師三喚 第十八則・洞山三斤 第十九則 ・ 平常是道 第二十則 ・大力量人 第二十一則・雲門屎橛 第二十二則・迦葉刹竿 第二十三則・不思善惡 第二十四則・離卻語言 第二十五則・三座説法 第二十六則・二僧巻簾 第二十七則・不是心佛 第二十八則・久嚮龍潭 第二十九則・非風非幡 第三十則・即心即佛 三十一則・趙州勘婆 第三十二則・外道問佛 第三十三則・非心非佛  第三十四則・智不是道 第三十五則・倩女離魂
第三十六則・路逢達道 第三十七則・庭前柏樹 第三十八則・牛過窓櫺 第三十九則・雲門話墮 第四十則・趯倒淨瓶 第四十一則・達磨安心 第四十二則・女子出定 第四十三則・首山竹篦 第四十四則・芭蕉シュ[扌+主]杖 第四十五則・他是阿誰 第四十六則・竿頭進歩 第四十七則・兜率三關 第四十八則・乾峰一路 無門関後序

禪宗無門關(自序)

 禪宗無門關(自序)                                     

仏語る心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且(しばら)く作麼生(そもさん)か透らん、豈道(い)ふことを見ずや、門より入る者は是れ家珍にあらず、縁に従つて得る者は始終成壊すと。恁麼(いんも)の説話、大いに風無きに浪を起し、好肉上に瘡を抉(えぐ)るに似たり。何ぞ況(いはん)や言句に滞つて解会を覓(もと)むるをや。棒を棹(ふる)つて月を打ち、靴を隔てて痒を掻く。甚(なん)の交渉か有らん。慧開、紹定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり、因みに衲子(のつす)請益す、遂に古人の公案を將つて、門を叩く瓦子と作して、機に随つて引導す。学者竟爾(つひ)に抄録して、覚えず集を成す。初めより前後を以つて叙列せず、共に四十八則と成し、通じて無門関と日ふ。若し是れ箇の漢ならば、危亡を顧みず、単刀直入せん。八臂の那陀他(なた)をさえぎれども住(とどま)らず。縦使(たと)い西天の四七、東土の二三も、只風を望んで命を乞ふを得ん。設し或は躊躇せば。也た窓を隔てて馬騎を看るに似たり。眼(まなこ)を貶得(さつとく)し来らば、早く已に蹉過せん。  
  
   頌に曰く、
  大道無門、
  千差(しゃ)路あり。
  此の関を透得せば、
  乾坤に独歩せん。


  
-------------------------------------------------------------------------------
   原著者(無門)の序文

 仏教では、心が法の本家で、無門が法の門、という。ほらもう門がない。いったいどこから仏教に入っていけばいい?
こう言っているのを知らないか。「門から入るものは家宝ではない。こうも言うておる。「門から入るは宝でないぞ、関係性から演繹してもぶちこわしだ。」そのような説話は、まったく風がない穏やかな水面にわざわざ波を起こし、すべすべした肉体に傷をつけるようなもの。穴を開けてあばたをつくるようなもの。ましてや言語で答えを見つけようなんて、棒っきれで月を打とうとか、靴の上からかゆい所を書こうとするようなもの。

 わたし無門慧開は、紹定元年の夏、温州の龍翔寺をあずかった。僧たちに教えを請われて、先達者たちの話からの問題を取りあげ、入門の手だてとして、それぞれみちびいた。弟子たちが書きとってしまい、いつしか本になった。最初から順序なんて考えもせずに、いつか四十八則がまとまり、[無門関]と名をつけた。

 もし君が一人前の男だというのなら、危険をかえりみずずばり切り込んでご覧。八本腕の神人もさえぎることなんてできないだろう。西天の四十七祖師、東土の二十三祖師にも、「恐れいりました。お助け下さい」と言わせることができる。迷ったりためらったりしている暇はない。そんなことをしてる間に時は素早く過ぎ去り、ぶざまに躓いて転んでいる自分を見ることになる。

  〈無門の偈〉
  大道無門、
  路は千差。
  此の関を透ることできれば、
  世界は自由自在。

------------------- 解説 --------------------

 無門関は南宗の禅師慧開無門(1183~1260)によって彼が四十六歳のときに編纂された禅の問題集である。
  無門は法系図によると月林師観禅師の直弟子で、後に無門関の第一則になった「狗子無佛性」の公案に六年間取り組み、ある日、太鼓の音を聴いて大悟したと言われている。

 無門は紹定元年(1228)に龍翔寺をあずかり、雲水たちの主座として皆を指導する立場にありました。この序によると、僧達がもっと具体的な教材で教示してほしいというので、今まで公案として扱ってきた古人の問答や語句をとりあげて、個々の相手の機によって選択し指導してきたが、それを弟子達が書きとったものが積み重なって相当な量となり、始めから前後を考えて並べたわけではないものがそのまま、四十八則の[無門関]となってまとまったという。
 この時代は南宗の国力が衰微して末路に近づいていた頃で、禅界もその最盛期をすぎて衰潮著しい時でした。ちょうどそのような時に無門禅師があらわれ、禅界の中興を成就することとなったが、そのときの修行者達の手引きとなったのがこの公案集の[無門関]である。

 無門は晩年、西湖の湖畔で隠居を試みたが、求道者の訪問が絶えず、意のままにならなかったと伝えられている。
[開道者]とあだ名されていたという無門の風貌を弟子が表した頌(うた)がある。
 師はやせて神々しい。
 その言葉は簡潔にして深遠。

 長く濃い髪と髭をもち。
 ぼろぼろな弊衣をまとっていた。

第一則・趙州狗子

無門関第一則・趙州狗子


    趙州和尚、因みに僧問ふ、狗子に還って仏性有りや。州云く、無。


    ◇                      ◇                     ◇

  無門云く、参禅は須らく祖師の関を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、盡く是れ依(え)草付木の精霊ならん。
  且らく道へ、如何なるか是れ祖師の関。只者(こ)の一箇の無の字、乃(すなは)ち宗門の一関なり。遂に之を目(なづ)けて禅宗無門関と日ふ。透得過する者は、但だ親しく趙州に見(まみ)ゆるのみに非ず、便(すなは)ち歴代の祖師と手を把つて共に行き、眉毛廝(あひ)結んで、同一眼に見、同一耳に聞(もん)す可し。豈慶快ならざんらんや。透関を要する底有ること莫しや。
  三百六十の骨節、八万四千の毫竅を将つて、通身に箇の疑団を起し、箇の無の字に参ずよ。昼夜提撕(ていずい)して、虚無の会(え)を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ。 箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽し、久々に純熟して、自然に内外打成一片ならん、唖子の夢を得るが如く、只自知することを許す、驀然(まくねん)として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪ひ得て手に入るが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向つて遊戯三昧ならん。
  且つ、作麼生(そもさん)か提撕せん。平生の気力を尽して、箇の無の字を挙せよ。若し間断せずんば、好し法燭の一点すれば便ち著くに似ん。

   頌に日く  
 狗子(くす)仏性、全提(ぜんてい)正令(しょうれい)。

わずかに有無(うむ)に渉(わた)れば、喪身(そうしん)失命(しつみょう)せん。

 

    ◇                      ◇                     ◇

ある僧が趙州和尚に尋ねた。(仏教ではすべての生命には仏性がある一切衆生悉有仏性というが)犬には仏性がありますか。趙州が言った、無(ムゥ)!

 〈無門の偈〉

犬に仏性が有るかどうかと、釈迦の命題を丸投げにした。

うっかり有無の話だと受け取れば、忽ち命を奪われるだろう。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー クゥ!

第二則・百丈野狐

無門関第二則・百丈野狐

 

 百丈和尚、凡そ参の次いで、一老人あり、常に衆に随つて法を聴く。衆人退けば、老人も亦退く。忽ち一日退かず。師遂に問ふ、面前に立つ者は、復た是れ何人(なんぴと)ぞ。
 老人云く、諾、某甲(それがし)は非人なり、過去迦葉仏の時に於て曾て、此の山に住す、因みに学人問ふ、大修行底の人、還つて因果に落つるや也た無しや。某甲対(こた)へて云く、不落因果と、五百生野狐身に堕す。今請う和尚、一転語を代つて、貴(たつと)むらくは野狐を脱せしめよと。遂に問ふ、大修行底の人、還つて因果に落つるや也た無しや。
 師云く、不昧因果。
 老人言下において大悟、作礼して云く、某甲已に野狐身を脱して、山後に住在す、敢て和尚に告す、乞ふ亡僧の事礼に依れ。
 師、維那をして白槌(びゃくつい)して衆に告げしむ、食後に亡僧を送ると、大衆言議す、一衆皆安し、涅槃堂に又人の病む無し、何が故ぞ是の如くなると。
 食後に、只師の衆を領して、山後の巖下に至り、杖を以つて一の死野狐を跳出して、乃ち火葬に依るを見る。
 師、晩に至つて上堂、前の因縁を挙す。黄蘗便(すなわ)ち問ふ、古人錯まつて一転語を祇対して五百生野狐身に堕す、転転錯らずんば合に箇の甚麼(なに)とか作るべき。
 師云く、近前来、伊(かれ)が與に道はん。黄蘗遂に近前して、師、一掌を與ふ、師、手を拍つて笑つて云く、将に謂へり胡鬚赤と、更に赤鬚胡あり。 


    ◇                      ◇                     ◇

 無門曰く、不落因果、甚(なん)としてか野狐に堕す。不昧因果、甚としてか野狐を脱す。若し這裏(しゃり)に向つて一隻眼を著得せば、便ち前百丈贏ち得て風流五百生なることを知得せん。

    頌に日く、
  不落不昧、
  両菜一賽。
  不落不昧、
  千錯万錯。


    ◇                      ◇                     ◇

 百丈和尚が提唱をするとき、いつもひとりの老人が修行僧に混じって法話を聞いていた。退出も僧たちとともに退出する。ある日、僧たちは退出したがその老人は残っていた。和尚は「今、私の前にいるのは誰か。」と尋ねた。

 老人は答える。「私は人間ではありません。大昔、迦葉仏の頃はこの寺の住職でした。その私に一人の修行僧が尋ねました。”完全な悟りを得た人は因果に落ちますか、落ちませんか”。私は”因果に落ちない”と答えましたが、そのために野狐としての一生を五百回も生きてきました。お願いです、和尚。私に悟りを得しむる一語を与え、キツネとして生きる道からお救い下さい。」老人はそこで百丈に尋ねる。「完全な悟りを得た人は因果に落ちますか、落ちませんか」

 和尚は答える。「因果に惑わない。」これを聞いて老人はたちまち悟りを得た。老人は百丈を拝礼して言う「私は狐の身を脱することができました。この山の後ろに脱した身があります。厚かましいお願いですが、それを僧の資格あるものとして扱って下さい。」

 和尚は事務役の僧に、合図を百回打たせて修行僧たちに「食事のあと、亡くなった僧の葬式をする」と告げた。僧たちは「寺じゅうみんな元気だし、涅槃堂にも病人はいない、何のことを言っているのか」と口々に言った。

 食後、和尚は皆を引き連れ山の後ろに行くと、巌の下の草むらから野狐の死体を杖で跳ね出して、これを僧の死体のように火葬した。

 その夜、和尚は法話の席で老人の因縁話をした。黄蘗が質問する。「そのじいさんは間違えたことばを教えたため野狐に堕ちて五百生を過ごした。その都度間違えなかったらなんになったんでしょうね?」和尚が言う。「もっと近くに来い。そうすれば話してやるぞ。」黄蘗は和尚の前まで進み出て和尚をひっぱたいた。和尚は手を打って大笑いしながら言う。「異人のヒゲは赤いと言うことだけど、赤いヒゲの異人がいたぞ!」

   ◇                      ◇                     ◇

 無門曰く、不落因果、そう言ったらなぜ野狐に堕ちたんだろう。不昧因果、そう言ったらなぜ野狐を脱したのか。もしこれを見通すことができるなら、あの老人は風流な五百生だったことがわかるだろう。

    頌を作って言う、
  不落不昧、
  賽の目だね。
  不落不昧、
  また違った、たくさん違った。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、 コンコンクックッ

不落不昧に落ち昧み鳴いて笑ってコンコンクックッ そうさ俺はここにいる。


それはそれとして、少し理屈を言う。前百丈が野狐となった話を取り上げていることでわかるとおり、ここで言う因果とは「原因があるから結果がある」という関係性を説く「縁起」ではなく、「前生、現生、後生」をみとめる「輪廻」に近い概念で用いられていると思う。釈迦は前生や後生などと言う霊的な存在についての発言は敢えて行わなかったので、これらを仏教に含めたのは後世の人間の勝手な付託である。

 釈迦なら確かに、「輪廻に落ちない」とは言わない。輪廻の存在を認めてないからだ。したがって「輪廻(ということばに)昧まない(くらまない、まどわない、だまされない)(なぜならおそらく存在しないから)」と言うだろう。

 ただし、無門は「輪廻に眩まない」をそうは受け取らず、「輪廻に落ちない」と同じように、「輪廻にとらわれない」と受け取ったようだ。頌でどっちに転んでも大差ないように言っているのは、そのためだろう。不落も不昧も言葉にすぎない。輪廻があろうとなかろうとどちらも楽しみ。頌の前半はそういうことだろう。後半は、言葉にすぎない不落や不昧にとらわれるなよと言っている。

 ぐっちー曰くの部分は不落不昧にとらわれる者をクックッと忍び笑い、自分つまり己本来のありかを野狐として宣言しているのだ、コーン。

第三則・倶胝竪指

無門関第三則・倶胝豎指


  倶胝和尚、凡そ詰問有れば、唯だ一指を挙ぐ。後に童子有り、因みに外の人問ふ、和尚、何の法をか説く。 童子も亦た指頭を堅つ。
  胝之れを聞いて、遂に刃を以てその指を断つ。童子負痛、号哭して去る。 胝復た之を召す。童子頭を廻らす。胝卻つて指を竪起す。
 童子忽然として領悟す。
  胝将さに順世せんとする時、衆に謂つて日く、 吾れ天竜一指頭の禅を得て、一生受用不尽と。言ひ訖(をは)つて滅を示す。
    ◇                      ◇                     ◇

  無門曰く、、倶胝並びに童子の悟処、指頭上に在らず。若し者裏に向つて見得せば、天竜、同じく倶胝、并びに童子と自己と、一串に穿却せん。

   頌に曰く、、
      倶胝鈍置す老天竜、
      利刃単して小童を勘す。
      巨霊手を抬(もた)ぐるに多子無し、
      分破す華山の千万里。


     ◇                      ◇                     ◇

倶胝和尚は、挑戦的な問答をされると、決まって唯だ一本の指を立てた。

ある時、倶胝の処に居た童子に客が「倶胝和尚が説いている仏法の肝要とはどのようなものですか?」と聞いた。

童子は、直ちに一本の指をスッと立てた。これを聞きつけた倶胝和尚は遂に刃を以って童子の指を切ってしまった。

童子は痛みに耐え切れず号泣して走り去った。

倶胝和尚は、「おい、○○!」と童子を呼び止めた。

童子が首を廻して振り返ると、倶胝は、すかさずスッと指を立てた。それを見た途端、童子は忽然として悟った。

倶胝和尚は、晩年になって、将に臨終を迎えようとした時、弟子達に向って、「私は天竜和尚の処で一指頭の禅を得たが、

一生かかってもそれを使い切ることができなかった。」と言って息を引き取った。


    ◇                      ◇                     ◇

無門曰く、、倶胝も童子もその悟りは指先なんかにはないぞ。若しお前さんがその本当のところが見抜けたならば、天竜和尚、倶胝和尚、そして童子と一緒に一串に刺し貫かれ、悟りの境地に至るだろう。

頌: 

倶胝は天竜老師を小馬鹿にし、鋭い刃を突きつけて光らせて子供を試した。

彼等の悟りの働きはあたかも巨霊神が華山を造作なく引き裂きいたように力強く、目覚しい。

     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、 やめなよ。弱いものいじめは。

(小坊主に)ほらそれだ、それだよね

手足を失っても手がかゆい。ついていたのは倶胝の指。ちょん切られて自分の指が生えた。

第四則・胡子無鬚

無門関第四則・胡子無鬚


  或庵曰く、、西天の胡子甚(なん)に因つてか鬚無き。

    ◇                      ◇                     ◇

  無門曰く、、参は須らく実参なるべし、悟は須らく実悟なるべし。者箇(しゃこ)の胡子、直(じき)に須らく親見一回して始めて得べし、親見と説くも、早両箇と成る。

   頌に曰く、、
  痴人の面前、
  夢を説くべからず。
  胡子無鬚、
  惺(せい)惺に曚を添ふ。
     ◇                      ◇                     ◇     


或庵が云った、「達磨には一体どういうわけで鬚が無いのか?。」


     ◇                      ◇                     ◇   
無門曰く、参禅は真実のものでなくてはならない、その悟りもは真の悟りでなくてはならない。ここに言う達磨の話にしても、一回直接体験すると始めて分かるだろう。

しかし、直接体験しないと分からないと説けば、これも自己と達磨が二つになってしまって始末が悪いものだ。

頌: 

痴人の面前で、夢のような話を説いてはならない。

達磨に鬚がない?スッキリしていた頭に眠気がさしてぼんやりするだけだ。

     ◇                      ◇                     ◇   

ぐっちー曰く、 三枚刃四枚刃五枚刃!

第五則・香嚴上樹

無門関第五則・香嚴上樹

               

香厳和尚云く、人の樹に上るが如し。口に樹枝を銜(ふく)み、手に枝を攀(よ)じず。脚樹を踏まず。樹下に人あつて西来の意を問ふ。対へずんば即ち他の所問に違(そむ)く、若し対ふれば喪身失命せん。正恁麼(しょういんも)の時、作麼生(そもさん)か対へん。

    ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、縦(たと)い懸河の弁有るも、總に用不著(じゃく)、一大蔵教を説き得るも、亦用不著。若し者裏に向つて対得著せば、従前の死路頭を活却し、従前の活路頭を死却せん。其れ或いは然らざれば、直きに当来を待つて弥勒に問へ。

   頌に曰く、
  香厳は真に杜撰(ずさん)、悪者尽限無し、
  衲僧の口を唖却して、通身に鬼眼を迸(ほとば)らしむ。

     ◇                      ◇                     ◇ 

ぐっちー曰く、自演乙!現代語訳しないよ。口だけで樹にぶら下がっているんだから話せば墜ちる。目も痛いし。

第六則・世尊拈花

無門関第六則・世尊拈花


世尊、昔、霊山会上に在つて花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。
 世尊云く、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付囑す。

    ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、黄面の瞿曇、傍若無人。良を圧して賤となし、羊肉を懸げて狗肉を売る。将に謂へり、多少の奇特と。只当時大衆都て笑うが如きんば、正法眼蔵作麼生か伝えん。設し迦葉をして笑はざらしめば、正法眼蔵又作麼生か伝へん。若し正法眼蔵に伝授有りと道はば、黄面の老子、閭閻を誑虎す。若し伝授無しと道はば、甚麼としてか独り迦葉に許す。

   頌に曰く、
  花を拈起し来たつて、
  尾巴已に露わる。
  迦葉破顔、
  人天措くこと罔し。

    ◇                      ◇                     ◇

ブッダが、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を手に持って大衆に示した。この時、大衆は皆な黙っているだけであった。しかし、迦葉尊者一人だけがニッコリと笑った。

この時ブッダは云った、「私には正しい理法を見る眼(正法眼蔵)、安らぎの悟りの心(涅槃妙心)、説くことも見ることもできない無相微妙な法門(実相無相、微妙の法門)がある。それは文字に表わすこともできないし、経典にも書かれていないものである(不立文字、教外別伝)。これを、摩訶迦葉にゆだねよう」。
 

無門曰く、金色に輝くお釈迦様もなんと独りよがりなものだ。善良な人間を奴隷にするかと思えば、羊の肉だと言って犬の肉を売っている。とても普通の人間にはできない芸だ。

 もしあの時説法の場に居た大衆が皆笑ったならば、正法眼蔵をどのようにして伝えたら良いだろうか。もし正法眼蔵を伝授することができるとすれば、ブッダは大衆皆を騙したことになる。もし伝授することができないとすれば、どうして迦葉にだけ伝授を許したのだろうか」。

頌: 

花をひねった時に正体が露(あら)われている。

迦葉はニッコリ笑ったが、誰も手も足も出ない。
    ◇                      ◇                     ◇


ぐっちー曰く。有名な拈華微笑だ。正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門。不立文字、教外別伝。類語続々の熟語宝庫、ソシュールもウィトゲンシュタインもこの辺から以心伝心?

第七則・趙州洗鉢

無門関第七則・趙州洗鉢

                                     
趙州、因みに僧問う、某甲(それがし)作入叢林、乞う師、指示せよ。州云く、喫粥(しゅく)し了るや未だしや。
  僧云く、喫粥し了る。
  州云く、鉢盂を洗ひ去れ。
  其の僧省(せい)有り。

    ◇                      ◇                     ◇
 無門云く、趙州口を開いて胆を見せしめ、心肝を露出す。是の僧、事を聞いて真ならずんば、鐘を喚んで甕と作す。

   頌に曰く、
  只分明に極むるが為に、
  翻つて所得をして遅からしむ。
  早く知る燈は是れ火なることを、
  飯熟すること已に多時。
    ◇                      ◇                     ◇

ある時、僧が趙州に尋ねた、「私はこの道場に入った新参者です。一つお教え下さい。」。

趙州は云った、「朝飯はすんだかい。」。僧は云った、「はい、食べました」。

趙州は云った、「それでは茶碗を洗っておきなさい」。その僧はいっぺんに悟った。

 

 頌に曰く、 

あまりにはっきりしすぎたことを言ったため、かえって会得するのに時間がかかる。

灯火を持って火を探している愚かさにが、早く気づけば、飯はとっくに炊けていただろう。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー ごちそうさん。おやすみなさい。

第八則・奚仲造車

無門関第八則・奚仲造車


  月庵和尚僧に問う、奚仲車を造ること一百輻、兩頭を拈却し、軸を去却して、甚麼邊(なにへん)の事をか明らむ。

    ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、若し也た直下に明らめ得ば、眼(まなこ)流星に似、機掣電の如くならん。

   頌に曰く
 機輪轉ずる處、
  達者猶ほ迷う。
  四維(ゆい)上下、
  南北東西。
    ◇                      ◇                     ◇

 月庵和尚が学僧に問うた。「大昔、奚仲は車というものを発明し百台も造ったが、その両輪も車軸も完全に取り外したという。いったい彼はそれによってどのような事を明らかにしようとしたのだろうか?」

無門曰く、これもまたすぐにピンとくるなら眼力は流星、期転は稲妻。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、エアーカー!

第九則・大通智勝

 無門関第九則・大通智勝


興陽の譲和尚、因みに僧問ふ、大通智勝仏、十劫坐道場、仏法不現前、不得成仏道の時如何ん。
  譲曰く、其の問甚だ諦当なり。
  僧曰く、既に是れ坐道場、甚麼としてか不得成仏なる。
  譲曰

く、伊(かれ)が不成仏なるが為なり。

    ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、只老胡の知を許して、老胡の会を許さず。
  凡夫若し知らば、即ち是れ聖人、聖人若し会せば、即ち是れ凡夫。

   頌に曰く、
  身を了ぜんよりは何ぞ似かん、心を了じて休せんには、
  心を了得すれば身は愁へず。
  若し也(ま)た身心倶に了了ならば、
  神仙何ぞ必ずしも更に侯に封ぜん。
    ◇                      ◇                     ◇

興陽の譲和尚に学僧が問うた。「大通智勝仏が、十劫もの長い間、道場に坐しつづけたが、仏法は現前せず、仏道は成り得なかったというのは、どういうことですか。」
  譲曰く、「その質問は、まさに的を射ている。」
  僧曰く、「既に是れ坐道場、なんとしてか不得成仏なる。」
  譲曰く、「伊(かれ)が不成仏なるが為なり。」

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、譲和尚は懇切丁寧。流動食と離乳食を作って与えたが摂食障害者だったのか?

第十則・清税孤貧

無門関第十則・清税孤貧


曹山和尚、因みに僧問うて云く、清税孤貧。乞ふ師賑(しん)濟しためへ。
山云く、税闍梨(じゃり)。
税、應諾す。
山云く、青原白家の酒、三盞喫し了つて、猶ほ道(い)う未だ唇を沾さずと。

    ◇                      ◇                     ◇

無門曰く、清税機を輸(ま)く、是れ何の心行ぞ。曹山の具眼、深く來機を辨ず。然も是(かく)の如くなりと雖も、且(しばら)く道(い)え、那裏か是れ税闍梨酒を喫する處。

   頌に曰く
 貧は范丹に似、
  氣は項羽の如し。
  活計無しと雖も、
  敢て與(とも)に富を闘わす。
    ◇                      ◇                     ◇

曹山和尚に僧(清税)が問うた。「わたし清税は孤貧です。なにか豊かになるものを恵んで下さい。」

曹山が言う「清税闍梨。」清税「はい。」曹山「青原白家の名酒を三杯も飲んでおきながら、口を湿したこともないなんてまだ言っているのかい。」

無門の頌

 貧しさは范丹に似ているが、
 気概は抜山蓋世の項羽のようだ。

 勝ち目なさそうだと思っても、

 曹山に禅問答を挑んでみた。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、無門は小谷城かもしれないね。両方キャラたってるよ。

第十一則・州勘庵主

無門関第十一則・州勘庵主


  趙州、一庵主の処に到つて問ふ、有りや有りや。主拳頭を竪起す。州云く、水浅くして是れ舟を泊する処にあらずと、便ち行く。
  又一庵主の処に到つて云く、有りや、有りや。主も亦拳頭を竪起す。州云く、能従能奪、能殺能活と。便ち作礼(さらい)す。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、一般に拳頭を竪起す、甚麼としてか一箇を肯ひ、一箇を肯はざる、且く道へ、詬訛甚(ごうごう なん)の処にか在る。若し這裏に向つて一転語を下し得ば、便ち趙州の舌頭に骨無く、扶起放倒大自在を得ることを見ん。
  然も是の如くなりと雖も、争奈(いかん)せん、趙州却つて二庵主に勘破せらるることを。若し二庵主に優劣ありと這はば、未だ参学の眼(まなこ)を具せず。若し優劣無しと道ふも、亦未だ参学の眼を具せず。

   頌に云く、
  眼(まなこ)は流星、機は掣電。
  殺人刀、活人剣。
    ◇                      ◇                     ◇

趙州がある庵主の処に到って聞いた、「なにかあったかい」。すると庵主は拳頭を立てて答えた。

趙州は「こんな水が浅い処に船を泊めるわけにはいかんわい」と云ってどんどん行ってしまった。 

趙州は又別の庵主の処に行くと「なにかあったかい」と聞いた。

すると庵主は亦拳頭を立てて答えた。趙州は「与えたり奪ったり、殺したり活かしたり、何と自由なことじゃ」と云って庵主に礼をとった。 

無門曰く、二人の庵主は同じように拳頭を立てて答えたのに、趙州はどうして一人を肯定し、もう一人の方を肯定しなかったのだろうか。

この公案の問題点はどこに在るのだろうか。もしその一点を指摘し適切な一語を言うことができれば、趙州のように舌先三寸で他人を肯定したり、否定するような大自在力を身に付けることができるだろう。

そうであったにしても、趙州ともあろう人が逆に二庵主に正体を見抜かれてしまっているではないか。もし、二庵主の間には優劣の差があると言うならば、それは未だ禅に参じる眼力がない。もし、優劣の差は無いと言うならば、それもまた禅に参じる眼力がないといえる。
     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、そんなもんじゃネ?無門も褒めすぎじゃネ?

第十二則・巖喚主人

無門関第十二則・巖喚主人


 瑞巖の彦(げん)和尚、毎日自ら主人公と喚び、復た自ら應諾す。乃ち云く、惺惺著(せいせいじゃく)(目覚めているか)。諾。他時異日、人の瞞を受くること莫かれ。諾[諾。

   ◇                      ◇                    ◇
  無門曰く、瑞巖老子、自ら買自ら賣つて、許多(そこばく)の神頭鬼面を弄出す。何が故ぞ。聻(にい)。一箇は喚ぶ底、一箇は應ずる底。一箇は惺惺底、一箇 は人の瞞を受けざる底。認著すれば、依前として還つて不是。若し也た他に效(なら)えば、、惣に是れ野狐の見解ならん。

    頌に曰く、
   學道の人真を識らず、
   ただ前より識神を認むるが為なり。
   無量劫來生死の本、
   癡人喚んで本來人と作す。
    ◇                      ◇                     ◇

瑞巌の彦和尚は毎日自分に向って「おい主人公!」と喚びかけ、自分で「はい」と答えていた。、

また「おい、しっかりしろよ」。「はい」。 さらに、「どんな時でも他人に騙されるなよ」「はい、はい」

無門曰く、

瑞巌和尚は、自作自演の胡散臭い一人芝居をしているわい。 一体彼は何が言いたいのだろう。さあここだぞ。一人は喚ぶ者、一人は応える者。一人ははっきりと目覚めている者、一人は騙されない者。しかし、この内どの一人を容認してもダメだ。そうだと言って若し瑞巌和尚のまねでもしたら、それこそ野狐禅に陥るだろう。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、野狐を作る公案だ。コギトエルゴスム、現存在。違うんじゃないかな。落差30センチと300メートルの滝では。でも滝は滝か。無門の門外漢にはちとわからん。

第十三則・徳山托鉢

無門関第十三則・徳山托鉢


  徳山、一日托鉢して堂に下る、雪峰に者(こ)の老漢、鐘未だ鳴らず、鼓未だ響かざるに、托鉢して甚(なん)の処に向つて去ると問はれて、山便ち方丈に回る。峰、巌頭に挙似す。頭云く、大小の徳山未だ末後の句を会せず。
  山聞いて、侍者をして巌頭を喚び来たらしめて、問うて云く、汝老僧を肯はざるか。
  巌頭密に其の意を啓す。山乃ち休し去る。明日陞坐(しんぞ)、果して尋常と同じからず。巌頭、僧堂前に至つて、掌を拊つて大笑して云く、且(しばら)く喜(き)すらくは、老漢末後の句を会することを得たり、他後、天下の人伊を奈何ともせず。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、若し是れ末後の句ならば、巌頭徳山、倶に未だ夢にも見ざるあり、検点し持ち来れば、好し一棚の傀儡に似たり。

   頌に曰く、
  最初の句を識得すれば、
  便ち末後の句を会す。
  末後と最初と、
  是れ者の一句にあらず。
    ◇                      ◇                     ◇

ある日徳山和尚は自分の食器を持って食堂である法堂にやって来た。

弟子の雪峰が「老師、未だ食事の合図の鐘も太鼓も鳴っていないのに、食器を持って何処に行くつもりですか」と言うと、徳山はさっさと自分の部屋に帰って行った。

雪峰はこの出来事を、老師を一本やりこめたよと得意げに巌頭に話した。

巌頭は、「さすがあの徳山老師ともあろう人でも、未だ究極のところが分かっておられないようだな」と云った。

これを聞いて徳山は侍者に巌頭を喚んで来させて聞いた、「お前さんはわしを肯(うべな)わないのか」。

で、巌頭は密かに師の徳山に、考えていることを打ち明けた。

これを聞いた徳山は安心した。翌日の徳山の説法は今迄より一段とあざやかでしまったものであった。 説法の後、巌頭は、僧堂の前に来ると、両手を打って呵々大笑して云った、

「なんと嬉しいことじゃないか。これで老師は究極の処を悟られたわい。今後は天下の人は誰も徳山和尚に手をだせなくなったぞ」。

無門曰く、もしこんなことが究極の処だと言うならば、巌頭も徳山もまるで分かっていないと言える。しかし、良く見るとまるで棚に仲良く並んだ人形さんたちのようだ。
頌に曰く
最初の一句が分かれば、最後の一句も分かるはずだ。

最後と最初と、ほらほらそうではないよ。 
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、解説書や解説サイトの諸氏は頭がよすぎるのかな。みんな文字で立ってる。是れ者の一句にあらず。

第十四則・南泉斬猫

無門関第十四則・南泉斬猫


南泉和尚、因みに東西の両堂猫児を争ふ、泉乃ち提起して云く、大衆道ひ得ば即ち救はん、道い得ずんば即ち斬却せん。

衆対ふるなし。泉遂に之を斬る。
晩に、趙州外より帰る。泉、州に挙示す。州乃ち履を脱いで、頭上に按じて出ず。
泉云く、適来子(なんじ)若し在らば、即ち猫児を救ひ得ん。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、且く道へ、趙州草鞋(そうあい)を頂く意作麼生(そもさん)。若し者裏に向つて一転語を下し得ば、便ち南泉の令虚りに行ずざることを見ん。其れ或は未だ然らずんば、険。

   頌に曰く、
  趙州若し在らば、
  倒(さかしま)にこの令を行ぜん。
  刀子を奪却して、
  南泉も命を乞はん。
    ◇                      ◇ 

南泉和尚は東西の両堂の修行僧達が一匹の猫のことで争っているのに出会った。南泉は直ちにその猫をつまみあげると、

「さあ、お前さんたち、この事について何か言ってみよ。もし、うまく言うことができたらこの猫を助けてあげよう。 しかし、もしうまく言うことができなかったらこの猫を切り捨ててしまうぞ」と言った。

しかし、誰も応える者がいなかった。南泉和尚は遂に猫を切り捨ててしまった。

 

 その日の夕方に高弟の趙州が外出より帰って来た。南泉は、趙州に今日の出来事を語って聞かせた。

これを聞いた趙州は履いていた草鞋を脱ぐと頭の上にチョコンと載せて出て行った。

これを見た南泉は言った、「もしお前が居たならば猫の命は救うことができたのに」。

無門曰く

何はともあれ、趙州が何故頭の上に草鞋を載せたか意味が分かるだろうか。

もし、この処をはっきりさせるような一語を吐くことができれば、南泉の酷い仕打ちもまんざら無駄ではなかったと分かるだろう。

もし、それができないなら危ういぞ。

頌に曰く

もし、趙州がその場に居たなら、立場を逆転していただろう。

刀を奪い取られては、さすがの南泉和尚も命乞いをするしかなかっただろうよ。

   ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、本当に殺生戒を犯したかどうかの問題は別とする。(ぐっちーはこの手の公案はすべて「それほどの決意」を示したものと受けとめる)。わかりやすい公案だと思う。

ぐっちー解1、頌に同じ、弱いものいじめはやめてください

ぐっちー解2、スタコラサッサ

ぐっちー解3、(                         )

第十五則・洞山三頓

 無門関第十五則・洞山三頓


  雲門因みに洞山の参ずる次いで、門問うて曰く、近離甚(いづれ)の処ぞ。
  山云く、査渡。
  門曰く、夏、甚の処にか在る。
  山云く、湖南の報慈。
  門曰く、幾時か彼(かしこ)を離る。
  山云く、八月二十五日。
  門云く、汝に三頓の棒を放(ゆる)す。
  山明日に至つて却つて上つて問訊す、昨日和尚三頓の棒を放すことを蒙る。知らず過(とが)甚麼の処にか在る。
  門曰く、飯袋子(はんたいず)、江西湖南便ち恁麼(いんも)にし去るか。
  山、此に於いて大悟す。

   ◇                      ◇                     ◇

 無門曰く、雲門、当時便ち本分の草料を與えて、洞山をして別に生機あらしめ、一路の家門寂寥を致さず。一夜是非海裏に在つて著倒して、直に天明を待つて再来すれば、又他(かれ)の與に注破す。洞山直下に悟り去るも、未だ是れ性燥ならず。
  且く諸人に問ふ、洞山三頓の棒喫すべきか喫すべからざるか。若し喫すべしと道はば、草木叢林皆棒を喫すべし。若し喫すべからずと道はば、雲門又誑語を成す。者裏に向つて明らめ得ば、方に洞山の與に一口気を出ださん。

   頌に曰く、
  獅子、児を救ふ迷子の訣、
  進まんと擬して跳躑(ちゃく)して早く翻身す。
  端無くも再び叙ぶ当頭著(じゃく)。
  前箭は猶ほ軽く後箭は深し。

    ◇                      ◇                     ◇

洞山が独参した時、雲門は、「そなたは一体何処から来たのか?」と聞いた。

洞山「査渡(さと)から来ました」。

雲門「この夏安居はどこで過ごしたのか?」

洞山「湖南の報慈(ほうず)寺です」。

雲門「幾時そこを出てきたのか?」

洞山は、「八月二十五日です」。

雲門は「お前のような奴には二十棒を三回食らわしてやりたいところだがその値打ちもない」と言った。

洞山は何故そう言われたのかちっとも分からなかった。まんじりともせず夜を過し、翌日の朝を待って、雲門の部屋に行って尋ねた、

「昨日、和尚は「『六十棒を食らわしてやりたいところだがその値打ちもない』と言われました。

一体私のどこが間違っているのでしょうか?」。

すると雲門は言った、「この大飯ぐらいめ、江西も湖南も、そんな調子で過ごしたのか?」。

 洞山はその途端大悟した。 
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、「そもさん」「せっぱ」「どうやってここに来た」「山手線で来ました」最後まで面倒見る雲門はすごい。ここまで面倒を見させる洞山は、よっぽどイケメン?

第十六則・鐘声七条

無門関第十六則・鐘声七条

           

  雲門曰く、世界恁麼に広闊たり、甚(なん)に因つてか鐘声裏に向つて七条を被す。

 

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、大凡(おほよ)そ参禅弁道は、切に忌む、声に随い色を遂うことを。縦使(たとい)ひ聞声(もんしょう)悟道、見色明心するも、也た是れ尋常なり。殊に知らず、衲僧家、声に騎り色を葢ひ、頭(ず)頭上に明に、著(ちゃく)著上に妙なることを。然も是くの如くなりと雖も、且く道へ、声、耳畔に来たるか、耳、声辺に往くか。直饒(たとい)響と寂と双び忘ずるも、此に到つて如何が話会せん。若し耳を将つて聴かば応に会し難かるべし、眼処に声を聞かば方に始めて親し。

   頌に曰く、
  会するときんば事、同一家、
  会せざるときは万別千差。
  会せざるも事、同一家、
  会するも万別千差。
    ◇                      ◇                     ◇

雲門禅師は云った、「世界はこのように広々と果てしない。なのになぜ、お前さん達は合図の鐘が鳴るときちんと袈裟を被るのか?」

     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、あちゃーずるいよ師匠。  また曰く「世界は広い。なのになぜ朝、顔を洗う?」

また被りながら曰く、「他は知らず。我は被る。」

第十七則・国師三喚

無門関第十七則・國師三喚


 國師三たび侍者を喚ぶ。侍者三たび應ず。國師云く、將に謂(おも)えり吾れ汝に辜(こ)負すと、元來却つて是れ汝吾れに辜負す。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、國師三喚、舌頭地に墮つ。侍者三應、光りに和して吐出す。國師年老いて心孤にして、牛頭を按じて草を喫せしむ、侍者未だ肯て承當せず。美食飽人の餐に中らず。且く道へ、那裏か是れ辜負の處ぞ。國清うして才子貴く、家富んで小兒嬌る。

   頌に曰く
 鐵枷無孔、人の擔はんことを要す、
  累ひ兒孫に及んで等閑(なおざり)ならず。
  門をささえ并びに戸をささふることを得んと欲せば、
  更に須く赤脚にして刀山に上るべし。
    ◇                      ◇                     ◇

南陽の慧忠国師が侍者を三たび喚ぶ。侍者はそのつど「はい」と返事する。国師は「なんだ、わしが(お前さんにとって)期待外れなのかと思っていたが、お前さんが期待外れだったんじゃな。」

無門曰く

国師は三度も侍者を喚ぶとは、あんまり喋りすぎると舌が地面に落ちるぞ。侍者はそのつど光と一緒に返事した。 国師も年取って淋しいとみえて、わざわざ牛の頭を掴まえて牧草を食べさせるようなことをしているよ。しかし、侍者がそれを受けて立たないのは既に腹一杯に飽食しているのでいくらご馳走でも食べたくないのだ。

ところで、一体どこがこの侍者が背いている処だろうか。世間では「国が平和だと才人は高くとまり、家が富むと子供はわがままになって親の言うことを聞かない」とよく言うが・・・。
頌に曰く、
仏法という無孔の鉄枷は努力なしに担うことはできないない。いいかげんにすまそうなんて怠けたりすれば、その累(わざわい)は、子孫の代までおよんで迷惑千万なことになるだろう。

それでも禅門を支えたいと思うなら、裸足で刀の山を登るような必死の努力をしないとだめだよ。 
     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く。無門さん御免。私が侍者なら2度目で返事しながら立ち上がり、3度目の返事は国師の目の前でしているよ。それはともかくわがまま息子に禅宗の未来を託すかねぇ。

第十八則・洞山三斤

無門関第十八則・洞山三斤


   洞山和尚、因みに僧問ふ。如何なるか是れ佛。山云く、麻三斤。

   ◇                      ◇                     ◇

  無門曰く、洞山老人、些の蚌蛤(はうごふ)禅に参得して、纔(わず)かに両片皮を開いて、肝腸を露出す。然も是の如くなりと雖も、且く道へ、甚(なん)の処に向つて洞山を見ん。

  頌に曰く、
  突出す麻三斤、
  言親しうして意更に親し。
  来つて是非を説く者、
  便ち是れ是非の人。
    ◇                      ◇                     ◇

洞山和尚に一人の僧か゜「仏とはどのようなものですか?」と問うた。

洞山は「麻が三斤」と答えた。
 

無門曰く

洞山爺さんはどうやら、蚌蛤(どぶ貝・はまぐり)禅を会得したようだな。ちょっと口を開いただけで腸(はらわた)までさらけ出してしまった。 まぁそれはそれとして、さあ言ってみろ。どの辺で洞山を見たのか。


頌に曰く、

洞山が言った「麻三斤」の一句は親しみ易いしその意味も分かりやすいものだ。

しかし、これについて理路整然と是非を語る人は是非善悪の人にしかすぎない。 
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、むぅっ!

第十九則 ・ 平常是道

無門関第十九則 ・ 平常是道


 南泉、因みに趙州問ふ、如何なるか是れ道。泉云く、平常心是れ道。
  州云く、還つて趣向すべきや否や。
  泉云く、向はんと擬すれば即ち乖く。

  州云く、擬せずんば、爭か是れ道なることを知らん。
  泉云く、道は知にも屬せず、不知にも屬せず。知は是れ妄覺、不知は是無記。若し真に不擬の道に達せば、猶ほも太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈強ひて是非すべけんや。 州、言下に於て頓悟す。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、南泉、趙州に發問せられて、直に得たり瓦解冰消、分疎不下なることを。趙州、縱饒(たとい)悟り去るも、更に三十年を參じて始めて得ん。 

   頌に曰く
 春に百花あり秋に月あり、
  夏に涼風あり冬に雪あり。
  若し閑事の心頭に挂る無くんば、
  便ち是れ人間の好時節。
    ◇                      ◇                     ◇

泉和尚は、趙州から「道とはどんなものですか?」と質問された。 

南泉、「平常心こそが道である」。

趙州、「やはり努力してそれに向うべきでしょうか?」 

南泉、「意識してそれに向かえばかえってそれてしまうよ」。

趙州、「何もしないでいて、どうして道であると分かるのですか」。

南泉、「道は知るとか、知らないとかいうものではない。知ったと思っても勘違い、知ることができないのは気づかないだけ。若し本当に疑いもない道に達することができれば、晴れた大空のように広々とすっきりしてこだわりも無くなる。 どうしてわざわざ是非を言う必要があろうか」。

趙州はこれを聞いた途端に悟った。

無門曰く

南泉和尚は、趙州に質問され、氷が溶けるように直ちに悟った。

もう言い訳もできない。趙州の方も悟ったと言っても、あと三十年は修行をしないと本当に身に付くものではないよ。


頌に曰く、

春に乱れ咲く百花、秋に月、夏に涼風、冬には雪。

もし、つまらぬことに心を煩わすことがなければ

いつでも人間にとって好い季節。  
     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、無門さんは浅深高低が好きだね。その都度変わるランキングに何の意味もないよ。

第二十則 ・大力量人

無門関第二十則 ・大力量人


  松源和尚曰く、大力量の人、甚に因つて脚を抬げ起さざる。又云く、口を開くこと舌頭上に在らず。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、松源謂つべし、腸を傾け腹を倒すと、只だ是れ人の承当するを欠く。たとい直下に承当するも、正に好し無門の処に来らば痛棒を喫せん。何が故ぞ、聻(にい)。真金を識らんと要せば、火裏に看よ。

   頌に曰く、
  脚を抬げ踏翻す香水海、
  頭を低れて俯して視る四禅天。
  一箇の渾身著くるに処無し、
  (請う一句を続げ。)
    ◇                      ◇                     ◇

松源和尚は言った、「悟った人は、一体どうして坐禅から立ち上がろうとしないのか?」。

また別の時に、「どうして舌を使って話さないのだろうか?」とも言った。  

無門曰く

松源和尚は何と腸(はらわた)までさらけ出したものだ。ただ残念なことにそれを正しく受け止める人がいない

。たとい、それをまっすぐ受け止めることができたとしても、無門の処に来て痛棒を受けてもらいたいものだ。

それは何故か。さあどうだ。それが本物の金かどうかは火に投げ込まねばわからん。
頌に曰く、

一旦脚を持ち上げると香水海(こうずいかい)をひっくり返し、四禅天(ぜんてん)を下に見ている。

このような身体の置き場所は何処にも無い。

この偈頌に続けて、誰か一句を付けて締めくくってくれ。

 
     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、どこにもないなら、今どこだ?

第二十一則・雲門屎橛

無門関第二十一則・雲門屎橛

                                    

 雲門、因みに僧問ふ、如何なるか是れ仏。門云く、乾屎橛。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、雲門謂つべし、家貧にして素食を弁じ難し、事忙うして草書するに及ばず、動(やや)もすれば便ち屎橛を将ち来つて、門をささえ戸を柱ふ。仏法の興衰見つ可し。

    頌に云く、
   閃電光、
   撃石火。
   眼(まなこ)を貶得すれば、
   已に蹉過す。
    ◇                      ◇                     ◇

雲門和尚にある僧が尋ねた、「仏とはどのようなものですか?」。

雲門、「クソかきべら」。

無門曰く

言うならば雲門は家が貧しくて食べ物も無く、仕事が忙しくて手紙一つを書く暇もないようだ。あろうことかクソかきべらをツッカイ棒にして門戸を支えようとしている。 仏法もこれじゃあたまったもんじゃない。
頌に曰く、

稲妻や火打石の火花。

眼ばたきする間に、さっと過ぎ去る。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、もういつでもどこでもなんでもありだ。

第二十二則・迦葉刹竿

 無門関第二十二則・迦葉刹竿                                   

  迦葉、因みに阿難問うて云く、世尊金襴の袈裟を傳ふる外、別に何物をか傳ふ。葉喚んで云く、阿難。
  阿難、應諾す。
  葉云く、門前の刹竿を倒卻著(とうきゃくじゃく)せよ。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、若し者裏に向つて一轉語を下し得て親切ならば、便ち靈山の一會儼然未散なることを見ん。其れ或は未だ然れずんば、毘婆尸佛早く心を留むるも、直に而今に至つて妙を得ず。

    頌に曰く
  問處は何ぞ答處の親しきに如かん、
   幾人か此に於いて眼に筋を生ず。
   兄呼び弟應じて家醜を揚ぐ、
   陰陽に屬せず別に是れ春。
    ◇                      ◇                     ◇

ある時、阿難は迦葉に尋ねた、「釈尊はあなたに金襴の袈裟の外に、別に何かを伝えられましたか?」。

すると迦葉は阿難に向って、「阿難」と喚んだ。 阿難が「はい」と答える。迦葉は「門前の幡を下ろしてくれ」と言った。

無門曰く  

もし、こういう状況で適切な一語を言えるならば、霊鷲山の説法会は未だ続いていると言えるだろう。

そうでなければ、毘婆尸仏(びばしぶつ)は大昔に悟ったはずが、今現在に至っても悟りきれてないことになる。
頌に曰く、
問いより答の方が分かり易いの、なんのと、幾人もが目に筋を立てて議論する。

兄が呼び弟が答えて、悟りとは何かを示そうなんて、仏家の醜態。

悟りは陰陽を越えて、いつだってこれ春。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、幡の数を倍にしなきゃ。

第二十三則・不思善惡

無門関第二十三則・不思善惡

                                      

  六祖、因みに明上座趁(お)うて大庾嶺に至る。祖、明の至るを見て、即ち衣鉢を石上に擲つて云く、此の衣は信を表す、力をもて争うべけんや。君が将ち去るに任す。
  明、遂に之を挙ぐるに、山の如くにして動ずず、踟蹰悚慄(ちちうしょうりつ)す。明云く、我は来たつて法を求む、衣の為にするに非ず。願はくは行者開示したまえ。
  祖云く、不思善、不思悪、正与麼(も)の時、那箇か是れ明上座が本来の面目。
  明当下に大悟、遍体汗流る。泣涙作礼して問うて云く、上来の密語密意の他、還つて更に意旨有りや否や。
  祖云く、我れ今汝が為に説く者は、即ち密に非ざるなり、汝若し自己の面目に返照せば、密は却つて汝が辺に在らん。
  明云く、某甲(それがし)黄梅に在つて衆に随ふと雖も、実に未だ自己の面目を省せず。今入処を指授することを蒙つて、人の水を飲んで冷暖自知するが如し。今 者は即ち是某甲の師なり。
  祖云く、汝若し是の如くならば、即ち吾と汝と同じく黄梅を師とせん。善く自ら護持せん。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、六祖謂つべし、是の事は急家より出づと、老婆心切なり。譬へば新茘支の殻を剥ぎ了り、核を去り了つて、汝が口裏に送在して、只爾が嚥一嚥せんことを要するが如し。

    頌に云く、
  描けども成らず畫すれども就(な)らず、
  賛するも及ばず生受することを休めよ。
  本来の面目蔵すに処なし、
  世界壊する時も渠(かれ)朽ちず。
    ◇                      ◇                     ◇

(五祖弘忍は伝承の証である衣鉢を弟子の上座である明にではなく新参の六祖慧能に継がした)

明上座が六祖を追っかけて大庾嶺(だいゆれい)まで来た時、六祖は衣鉢を石上に擲(な)げて明上座に云った、「この衣は五祖からの伝法の証拠だ。力づくで争うようなものではない。しかし、どうしてもお前さんが欲しいなら持って行けば良い」。

 

そこで明上座はそれを持ち上げ持って行こうとした。しかし、持ち上げようとするのだが衣鉢は山のようにびくとも動かなかった。 明上座は心中恐れ戦いて 云った、「私があなたを追ってきたのは法を求めるためで、衣鉢のためではありません。 どうか、私を導いて下さい」。

 

六祖は云った、「善とか悪かということを考えることを止めた丁度その時、

一体、明上座、あなたの本来の面目は何処にあるのか?」。

それを聞いた途端明上座は大悟した。彼は全身汗びっしょりになり、涙が止めどもなく流れた。

大地にひれ伏した明上座は六祖に尋ねた、「今教えて頂いた秘密の言葉や内容の外に、何か更にあるのでしょうか」。

六祖は言った、「私が今お前さんに説いたものは秘密でも何でもない。

もしお前さんが真の自己を振り返って見れば、秘密は却ってお前さん自身に在ることが分かるだろう」。

明上座は云った、「私は、黄梅山で皆と一緒に修行して来ましたが、未だ自己本来の面目を悟ることがありませんでした。

しかし、今、あなたから「これ」だというものを示して頂き、水を飲んで冷暖自知(れいだんじち)するように分かりました。

今やあなたこそ私の師と仰ぐ方です」。

六祖は云った、「お前がもしそのように悟ったならば、私とお前は同じ五祖弘忍老師を師と仰ぐ者になる。

今後ともその法を忘れることなくよく護持して行きなさい」。

 

無門曰く
 

六祖は追っかけて来た明上座に止むに止まれず究極の処を示したのは親切極まりないといえるだろう。

まるで茘支(れいし)の皮を剥き、種を取り去って、口に入れてくれているようなものだ。あとはお前さんがそれを呑み込むだけでいいのだ。


頌に曰く、


「本来の面目」はいくら名人が描いてみようとしても絵にならないし、描きようがない。いくら言葉を極めてほめても、ほめ切ることができない。

本来の面目はいつどこでも丸出しになって隠しようがない。もし、この世が終るような時が来ても、かれは朽ちることはない。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、六祖檀経で説明します(予定)。

第二十四則・離卻語言

無門関第二十四則・離卻語言


 風穴和尚、因みに僧問ふ、語黙は離微に渉る、如何が不犯を通ぜん。穴云く、長(とこしな)へに憶ふ江南三月の裏、鷓鴣啼く処百花香し。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、風穴、機、掣電の如く、路を得て便ち行く。争奈(いかん)せん前人の舌頭に坐して断ずざることを。若し這裏に向つて見得して親切ならば、自ら出身の路あらん。且く語言三味を離却して、一句を道ひ将ち来れ。

   頌に云く、
  風骨の句を露はさず、
  未だ語らざるに先ず分付す。
  歩を進めて口喃喃、
  知んぬ君が大いに措くこと罔きを。

    ◇                      ◇                     ◇

風穴和尚に僧が尋ねた、「言葉で表現しても言いたいことから離れてしまう、沈黙しても伝わらない。語ったり黙ったりして禅の究極の処に通じるにはどうすれば良いですか?」。

風穴和尚は、杜甫の詩を誦した。「いつも懐かしく思い出すのだが、江南は春三月ともなると、鷓鴣が鳴き、百花が咲き乱れる」


無門曰く
 

風穴和尚の機は、まるで稲妻のように、瞬時に目指した処にたどり着いている。それにもかかわらず、杜甫の詩なんぞでかっこつけたのはいかにも残念だ。

もし諸君がこのところを見抜いたなら、悟りへの道はおのずから開くだろう。それでは、言葉を離れたところで、そこのところを一句で表わして見ないか。


頌に曰く、


風穴は自分で言わずにそれらしい詩を誦した。

身を乗り出してあれこれいうと、とんだ恥さらしになって頼りにされないぞ。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、語るに堕ちるなよ。

第二十五則・三座説法

無門関第二十五則・三座説法                                      

  仰山和尚、夢に彌勒の所に往いて、第三座に安ずらる。一尊者有り、白槌(びゃくつい)して云く、今日第三座の説法に當る。
   山乃ち起つて、白槌して云く、摩訶衍の法は四句を離れ、百非を絶す。諦(たい)聽、諦聽。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、且く道へ、是れ説法か不説法か。口を開けば即ち失し、口を閉ずれば又喪す。開かず閉じざるも、十萬八千。

    頌に曰く、
   白日青天、
   夢中に夢を説く。
   捏(ねつ)怪捏怪、
   一衆に誑謼(こ)す。
    ◇                      ◇                     ◇

仰山(ぎょうさん)和尚は、夢の中で兜卒天(とそつてん)に昇り弥勒(みろく)菩薩の所に行って、第三座に着いた。

すると一人の高僧が出てきて、槌を打ち鳴らして、「皆さん、今日は第三座が説法しますよ」と言った。

これを聞いた仰山は起(た)ち上がって演壇に行き、槌を打って云った、「大乗の仏法は四句、百句などあらゆる論理を超えています。よく聞きなさい。 よく聞きなさい。」


無門曰く

さて、仰山和尚は一体説法したのか、説法しなかったのか。口を開けば間違いになるし、黙っていれば説法にならない。だからといって口を開かず閉じずということでも、仏法から限りなく遠く離れてしまう。


頌に曰く、

白日青天の明るい時に、夢を見て夢の中で仏法を説いた。

仰山和尚のそんな夢物語は甚だ怪しいものだ。みんなをたぶらかそうとしている。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、白日夢と書いてさだむと読ませる探偵もいたが、まあ、のどかな話だ。

第二十六則・二僧巻簾

無門関第二十六則・二僧巻簾                     


 清涼の大法眼、因みに僧、齋前に上參す。眼手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去つて簾を巻く。眼曰く、「一得一失」。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、且く道へ、是れ誰か得誰か失。若し者裏に向つて一隻眼を著得せば、便ち清涼國師敗闕の處を知る。然も是の如くなりと雖も、切に忌む得失裏に向つて商量することを。
   頌に曰く、
  卷起すれば明明として太空に徹す、
  太空猶ほ未だ吾が宗に合(かな)はず。
  爭(いかで)か似(し)かん空より都て放下して
 綿綿密密風を通ずざらんには。
    ◇                      ◇                     ◇

ある日昼食の前に、清涼(しょうりょう)院の大法眼和尚の所に二人の僧が質問に来た。和尚は黙って簾を指さした。

二僧は揃って簾の所に行って簾を巻き上げた。すると、和尚は言った、「一人はそれでよいが、一人は駄目だ」。


無門曰く

さあ、誰がよくて、誰は駄目なのだろうか。もしこの処を見抜ける眼を持っていれば、清涼(しょうりょう)国師が駄目だった処が分かるだろう。

しかし、そうであっても、どちらがよくて、どちらは駄目だなどと考えたりしたら駄目だぞ。
 頌に曰く、


簾を巻き上げれば明るい大空が見える。それは禅の悟りの境地にはまだおよばない。

空も何もかも投げ捨てて、風さえ通さないほど徹底しろ。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、冬はよいが夏はだめだ。もちろんすだれではない。

第二十七則・不是心佛

無門関第二十七則・不是心佛

  南泉和尚、因みに僧問うて、還つて人の與に説かざる底の法有りや。泉云く、有り。
  僧云く、如何なるか是れ人の与めに説かざる底の法。
  泉云く、不是心、不是仏、不是物。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、南泉者の一問を被りて、直に得たり家私を揣盡し、郎当少からざることを。

   頌に云く、
  丁嚀は君徳を損す、
  無言真に功あり。
  任從(さもあらばあれ)蒼海は変ずるとも、
  終に君が為に通ぜず。

    ◇                      ◇                     ◇

南泉和尚にある僧が尋ねた、「今迄誰も説かなかった法が有りますか?」。

南泉、「有る」。

僧、「今迄誰も説かなかった法とはどのようなものですか?」。

南泉、「心でもなく、仏でもなく、ものでもないものだ」。

無門曰く

南泉は、この一問を浴びせられて、家の財産を全て放り出して、へとへとに疲れてしまった。
頌に曰く、

南泉はあまり丁寧に説明したため自分の徳まで損なった。むしろ無が良かった。

それはそれとして滄海変じて桑田となっても、お前さんには説いてやらない。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、それはそれとして尋ねた坊主は「無ーっ!」を期待してたと無門も言っているけどどこまで肯うかい。

第二十八則・久嚮龍潭

無門関第二十八則・久嚮龍潭                                 

  龍潭、因に徳山請益して夜に抵る、潭云く、夜深けぬ、子(なんじ)何ぞ下り去らざる。
  山、遂に珍重して、簾を掲げて出ず。外面の黒きを見て却回して云く、外面黒し。
  潭即ち紙燭を点じて度与す。山、接せんと擬す。潭便ち吹滅す。山、此に於て忽然として省あり。便ち作礼す。
  潭云く、子(なんじ)箇の甚麼(なに)の道理をか見る。
  山云く、某甲(それがし)今日より去つて天下の老和尚の舌頭を疑わず。
  明日に至つて、龍潭、陛堂(しんざ)して云く、可の中箇の漢有り、牙(げ)剣樹の如く、口は血盆に似て、一棒に打てども頭を回らさざれば、他時異日、孤峰頂上に向つて吾が道を立する在らん。
  山、遂に疏抄(しょしょう)を取つて法堂の前に於て一炬火を将て提起して云く、諸(もろもろ)の玄弁を窮むるも、一毫を太虚に致(お)くが若く、世に枢機を竭(つ)くすも、一滴を巨叡に投ずるに似たり。疏抄を将て便ち焼く。是に於て礼辞す。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、徳山未だ関を出でざる時、心憤憤、口悱悱たり。得々として南方に来たつて、教外別伝の旨を滅却せんと要す。澧州の路上に到るに及んで婆子に問うて点心を買ふ。
  婆云く、大徳の車子の内は是れ甚麼(なに)の文字ぞ。
  山云く、金剛経の疏抄。
  婆云く、只だ経中に道ふが如きんば、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得と。大徳、那箇の心をか点ぜんと要す。
  徳山、者(こ)の一問を被つて、直に得たり口扁担に似たることを。然も是くの如くなりと雖も、未だ肯て婆子の句下に向つて死却せず。遂に婆子に問う、近所に甚麼の宗師かある。
  婆云く、五里の外に龍潭和尚ありと。
  龍潭に到るに及んで敗闕を入れ尽す。謂つべし是れ前言、後語に応ずずと。
  龍潭大いに児を哀れんで醜きを覚えざるに似たり。他の些子の火種あるを見て、郎忙に悪水を将つて、驀頭に一澆に澆殺す。冷地に見来たらば一場の好笑ならん。

  頌に云く、
   名を聞かんよりは面(おもて)を見んには如じ、
   面を見んよりは名を聞かんに如かじ。
   鼻孔を救い得たりと雖も、
   争奈(いかん)せん、眼晴を瞎却することを。
    ◇                      ◇                     ◇

竜潭和尚のところに、ある時徳山が教えを乞いにやって来た。議論は白熱し、そのうち夜になった。竜潭は、「夜もだいぶ更けてきたからそろそろ山を下りた方がよいのではなかろうか」と言った。

徳山は、仕方なく別れを告げて、簾を上げて外に出ようとした。ところが外が真っ暗なので引き返して来て「もう外は真っ暗です」と言った。

竜潭和尚は提灯に灯をつけて渡してやった。徳山が提灯を受け取ろうとした時、竜潭はプッと灯を吹き消してしまった。

徳山は、この時、忽然(こつねん)として悟り、竜潭和尚に深々と頭を下げた。

竜潭は「お前さん、なにかわかったのかな」と言った。

徳山は、「今日から私は世の老師達が言われることを疑いません」と言った。


翌日になって、竜潭は説法の座に上って、「もし、この中に血をのせた盆のような口と剣樹のような歯を持ち、棒で打たれてもびくともしないような男がいるなら、その男はいつの日か、誰一人寄り付けない高みに独自の仏法を打ち立てるだろう」と云った。

徳山は遂に、法堂(はっとう)の前に行って持って来た金剛経の注釈書を取り上げ、一本の炬火(こか)を持つと、

「どんなに仏教の教義を窮(きわ)めても、一本の髪の毛を大空に投げたようなもの、またどんなに世の中の仕組みを知り尽くしても一つの水滴を大きな谷に投げるようなものだ」と云ってそれらの注釈書を焼却してしまった。 そして礼を述べるとさっさと山を下りて行った。

 

無門曰く

徳山は故郷にいた時は、心に思うことが一杯あったがそれを言葉に言い表すことができなかった。しかし、我こそは「教外別伝」の仏教だと言って勢いを増している禅宗をことごとく論破して滅却してやろうと南方にやって来た。

澧州(れいしゅう)までやって来て腹が空いたので路端の茶店に立ち寄り茶店の婆さんに点心を注文した。

ところがこの婆さんはただ者ではない。

婆さんは徳山に、「お坊様の車に積んである書物は一体何の本ですか?」と尋ねて来た。

徳山は、「あれは私が書いた金剛経の注釈書ですよ」と言った。 

すると婆さんは、「金剛経には、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得と書いてあるはずです。あなたは今点心を注文されましたが、一体どの心で注文されたのですか?」と聞いて来た。

徳山は、この一問にぐっとつまって口を一文字に閉じたままになった。この質問にすぐに答えることができなかったからである。

遂に徳山は、婆さんに、「この近くに禅の宗匠がおられますか?」と聞いた。婆さんは、「ここから五里ばかり離れた所に竜潭和尚がおられます」と云った。

そこで竜潭山に行き、竜潭和尚に会って法戦を戦わせたがいやというほどの敗北を喫してしまった。

これでは故郷での大言壮語は何一つなし得なかったというしかない。竜潭和尚はこの若造が気に入ってしまったばかりに、そのお粗末さに気付かなかったようだ。 徳山に少しばかり才能があると見て、慌てて泥水を浴びせかけ、折角の悟りの火種を消してしまったわい。 冷静に竜潭のやり方を見ると全く一場のお笑い草だよ。


頌に曰く、


名前を聞だけより一見した方が良い。ところが会うと、会って見るより名前だけを聞いていた方が良かった。

たとえ鼻を救ったといっても、目玉を持って行かれちゃしょうがない。

     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、拈華微笑できなくなるってか。

第二十九則・非風非幡

無門関第二十九則・非風非幡                         

六祖、因みに風、刹幡を揚ぐ。二僧有り対論す。一(ひと)りは云く幡動くくと、一(ひと)りは云く風動くと、往復して未だ曾て理に契はず、祖云く、是れ風の動くに非ず、是れ幡の動くにあらず、任者が心動くなりと。
 二僧慄然たり。

   ◇                      ◇                     ◇
 無門云く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらずんば、甚れの処にか祖師を見ん。若し這裏に向つて見得して親切ならば、方に知らん二僧は鉄を買つて金を得。祖師は忍俊不禁、一場の漏逗なることを。

   頌に曰く
   風幡心動、
    一状に領過す。
    只口を開くことを知つて、
    話墮(わだ)することを覺えず。
    ◇                      ◇                     ◇

ある時法座を知らせる寺の幡が風にパタパタ揺れ動いていた。それを見て二僧が議論を戦わせていた。

一人の僧は「幡が動いているのだ」と云うと、 もう一人の僧は「いや風が動いているのだ」と云ってお互いの立場を譲らないので決着が着かなかった。

そこに偶然六祖が出くわした。その議論を聞いた六祖は「これは風が動いているのでもなく、また幡が動くのでもない、あなた方の心が動いているだけだ」と云った。

これを聞いた二僧はぶるっとして鳥肌が立った。

 

無門曰く


風が動くのでも、幡が動くのでもない。ましてや心が動くのでもない。とすると祖師は一体何が動くと見たのか。

若し、そこをしっかりと見抜くならば、この二僧が鉄を買うつもりで、思いがけず金を手に入れたことが分かるだろう。

それにしても六祖は優しすぎたためにとんだボロをだした一幕であった。


頌に曰く、


風、幡、心が動くかどうかで大騒ぎをして、皆同罪で拘引された。

六祖も思わず口を開いたため、自分の言葉がボロを出しているのに気付かないとは情けない。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、ひいきの引き倒しじゃうっかり冗談も言えないね。

第三十則・即心即佛

無門関第三十則・即心即佛                               

  馬祖、因みに大梅問ふ、如何なるか是れ佛。祖云く、即心是佛。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、若し能く直下に領略し得去らば、佛衣を著け、佛飯を喫し、佛話を説き、佛を行ずる、即是佛ならん。然も是の如くなりと雖も、大梅多少の人を引いて、錯つて定盤星を認めしむ。爭か知らん、箇の佛の字を説くも、三日口を漱ぐと道ふことを。若し是れ箇の漢ならば、即心是佛と説くを見ば、耳を掩うて便ち走らん。

   頌に曰く、

  青天白日
  切に忌む尋、覓(みやく)することを。
  更に如何んと問ふは、
  贓を抱いて屈と叫ぶ。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、青天白日、訳せばあちこちからこぼれる。このあたりまで読み進んでくれた人なら一転語でるだろう?禅の場、真の場。

第三十一則・趙州勘婆

無門関第三十一則・趙州勘婆                               

 趙州、因みに僧、婆子に問ふ、「台山の路、甚(なん)の処に向つてか去る」。婆云く、「驀直去(まくじきこ)」。僧纔かに行くこと三五歩。婆云く、「好箇の師僧、又恁麼(いんも)に去る」。後に僧あつて州に挙似す。州云く「待て我が去つて汝が与に這(こ)の婆子を勘過せん」。
  明日便ち去つて亦是の如く問ふ。婆も亦是の如く答ふ。
  州帰つて衆に謂つて曰く、「台山の婆子、我れ汝が与に勘破し了れり。」

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、婆子只坐(い)ながらに籌を帷幄に解して、要且つ賊に著くることを知らず。趙州老人、善く営を偸んで塞を劫かす機を用ひて、又且つ大人の相なし。点検し将ち来れば、二り倶に過有り。且く道へ、那裏か是れ趙州、婆子を勘破する処ぞ。


   頌に曰く、
  聞既に一般、
  答も亦相似たり。
  飯裏に砂有り、
  泥中に刺有り。
    ◇                      ◇                     ◇

旅の僧が、茶店の老婆に聞いた、「五台山(だいざん)への道は、どう行くのですか?」。

老婆は言った、「真っ直ぐに行きなさい」。

僧が、その言葉通りに三五歩行くと老婆は言った、「なかなかの坊さんに見えたが、やはり同じように行きなさる」。

後で僧がその話を趙州に話した。

趙州は言った、「ひとつわしが行って、お前さんのために、この婆さんの正体を見届けてやろう」

明くる日になると、趙州は出かけて行って同じように道を尋ねた。老婆もまた同じように答えた。

趙州は帰って来ると門下の修行僧に言った、「わしはお前さんたちのためにあの五台山(だいざん)の婆さんを見破ってやったぞ」。

 

無門曰く


老婆は自分の陣中に坐(い)ながら戦略を練ることを知っているらしいが、要塞が賊にやられていることに気付いていない。

趙州は本営に潜入し、要塞を侵略する機を示したが、やることが大人げない。

よくみれば二人ともに落ち度がある。ところで趙州和尚は一体老婆の何処を見破ったのであろうか、言ってみなさい。


頌に曰く、


そもそも質問が機に応じたものでなければ、答えもまたそんなもんだろう。そんなもんだと思っていると、飯の中に砂あり、泥の中に刺あり、痛い目を見るぞ。

     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、もはや三十一則、公案既に一般なれど薔薇どころか仙人掌なるぞよ。

第三十二則・外道問佛

無門関第三十二則・外道問佛


 世尊因みに外道問ふ、有言を問はず、無言を問はず。世尊拠坐良(やや)久しうす。

外道賛嘆して云く、世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて、我をして得入せしむ。乃ち礼を具して去る。

阿難尋(つ)いで沸に問ふ、外道に何の所證有つてか賛嘆して去る。世尊云く、世の良馬の鞭影を見て行くが如し。


   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、阿難は乃ち佛弟子、宛(あたか)も外道の見解に如かず。且く道へ、外道と佛弟子と相去ること多少ぞ。

   頌に云く、
  剣刃上に行き、
  氷稜上に走る。
  階梯に渉らず、
  懸崖に手を撒す。
    ◇                      ◇                     ◇

ある異教徒が釈尊に尋ねた、「言葉で言わないで下さい」「無言で示さないで下さい」。

釈尊はしばらく黙って坐っていた。

それを見た異教徒は賛嘆して、「世尊の大きな慈悲によって、私の迷いの雲が晴れ、悟ることができました」と礼をして去って行った。

阿難は釈尊に聞いた、「異教徒は一体何を悟ったと言って、あのように賛嘆して去って行ったのですか?」。

釈尊は云った、「良馬が鞭の影を見た途端に走って行くようなものだよ」。

 

無門曰く


阿難は釈尊の直弟子であるが、異教徒の見解に及ばない。それではこの異教徒と仏弟子とを比べてどれ位の差があるか言ってみよ。


頌に曰く、


剣の刃の上を行ったり、氷の稜線上を走る。

はしごで上り下りできるものではない、断崖絶壁でつかまっている手をさっとと離すことだ。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、無門懸命、それで幾人が助かる?

第三十三則・非心非佛

無門関第三十三則・非心非佛

 

 馬祖、因みに僧問ふ、如何なるか是れ佛。祖曰く、非心非佛。

 

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、若し者裏に向つて見得せば、參學の事畢(おわ)んぬ。

    頌に曰く
  路に劍客に逢はば須らく呈すべし、
   詩人に遇はずんば獻ずること莫かれ。
   人に逢うては且く三分を説け、
   未だ全く一片を施つべからず。
    ◇                      ◇                     ◇

馬祖和尚に僧が聞いた、「仏とはどういうものですか?」。

馬祖は云った、「心でもない、仏でもない」。


無門曰く

もしこの処を見得することができれば、禅の修行は完了だ。


頌に曰く、

路で剣客に逢った時には、剣を出すべきだが、詩人でなければ詩を出す必要はない。

人には、三分を説いても良いが、全てを施してはならない。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、馬祖も無門も全てを施したがる。それはそれとして非心非仏、即心即仏、不是心仏、平常是道と麻三斤、乾屎橛の浅深をあえて問おうか。

第三十四則・智不是道

無門関第三十四則・智不是道                               

 南泉云く、心は是れ仏にあらず、智是れ道にあらず。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、南泉謂つべし老いて羞を識らずと、纔かに臭口を開いて、家醜を外に揚ぐ。然も是の如くなりと雖も、恩を知る者は少し。

   頌に曰く、
  天晴れて日頭出で、
  雨下つて地上湿う。
  情を盡して都て説き了る、
  只恐る信不及ならんことを。
    ◇                      ◇                     ◇

南泉和尚は云った、「心は仏ではない、智は仏道ではない」。

 

無門曰く

南泉ともあろう人が、歳とって恥というものが分からなくなったのだろうか。 臭い口を開けて何かしゃべったと思ったら、家の恥を外にさらしたよ。たとえそうだとしても、南泉和尚の大恩を知る者が少ないのは嘆かわしいことだ。 

頌に曰く、

快晴の大空には太陽が輝き、雨が降れば大地は湿(うるお)う。

思いのたけを尽くして、全て説きおわっても、信じることができなければどうしようもない。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、直前の公案に同じ。禅匠の老婆心いたみいる。無門も頌で愚痴ってしまった。とりあえず信不及を謝す。

第三十五則・倩女離魂

無門関第三十五則・倩女離魂                          

 五祖、僧に問うて云く、倩女離魂、那箇か是れ真底。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、若し者裏に向つて真底を悟り得ば、便ち知らん殻を出でて殻に入ることは旅舎に宿するが如くなるを。其れ或は未だ然らずんば、切に亂走すること莫かれ。驀然(まくねん)として地水火風一散せば、湯に落つる蟒蟹の七手八脚なるが如くならん。那時言ふこと莫かれ道はずと。

   頌に云く、
  雲月是れ同じ、
  渓山各(おのおの)異なり。
  万福万福、
  是れ一是れ二。
    ◇                      ◇                     ◇

五祖山の法演禅師が僧に問うた。

「倩女の肉体から魂が抜け去ったという物語があるが、一体どちらが本物の倩女であろうか?」


無門曰く

もし、この話の勘所を捉え、本物の倩女はこれだと悟れば、死んで魂が身体から離れ、また身体に入るということは、あたかも旅に出て宿から宿に泊まるようなものだと分かる。

しかし、未だ悟っていないならば、むやみに人生を送ることをしてはいけない。突然死ぬようなことになった時、慌てふためいて、まるで湯に落ちた蟹が手脚をバタバタさせもがき苦しむようなことになるだろう。そんな時、わしが言わなかったからなんて言うなよ。
頌に曰く、

 雲と月は同じだが、渓山はそれぞれ違っている。

 それがわかればめでたい限りだ。一でもあり二でもある。 
    ◇                      ◇                     ◇

倩女離魂(せいじょりこん)の話:「倩女離魂」の物語は唐代の伝奇小説『離魂記』に出てくる。


 唐の時代、衡陽に張鑑という人がいた。張鑑の一人娘倩女は、なかなかの美人で、王宙という美男子と恋仲だった。

倩女と王宙が小さい時 張鑑は二人を結婚させて上げようと言っていた。二人は喜んで、その気になっていた。ところが二人が大きくなると、父親の張鑑は、彼女を別の男と結婚させようとした。そのために倩女は鬱病になった。

王宙は張鑑のしうちを恨んで都に行こうと決意して、故郷を後にした。しばらく行くと、倩女が追っかけて来て、「あなたといっしょでなければ」 と言った。王宙はその心根をうれしく思い、二人は手に手をたずさえて遠く蜀の国に駆け落ちした。

五年の歳月が流れて、子供が二人できた。やがて、倩女は望郷の念やみがたく、王宙を説得して故郷の衡陽に帰ることになった。

王宙はまず一人で張鑑(倩女の父)の家に行き、不孝を詫び、赦しを乞うた。ところが、張鑑はケゲンな顔つきで、「お前は倩女を連れ駆け落ちしたと言うが、倩女はお前が家出して以来ズーッと病気で、いまもまだ隣の部屋に寝ているよ」と言う。

 そういわれると王宙も何が何やらさっぱりわからなくなった。とにかく舟着場に残してきた倩女を連れてくるにかぎるとし、急いで引き返し、倩女を連れて来た。

 すると、いまのいままで病臥していた倩女がイソイソと、隣の部屋から出てきて、瓜二つの倩女は互いに歩みよったかと思うとアッという間に合体して一人になった。


 本則はこの物語を元にして五祖山の法演が公案を創ったものと思われ、法演から五代目の法孫である無門慧開に伝わったものらしい。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、とうとうこんなものまで持ち出して先祖の恥までさらさなくてもいいだろう。

第三十六則・路逢達道

無門関第三十六則・路逢達道


五祖云く、「路に達道の人に逢はば、語黙を将つて対せず。且く道へ、甚麼(なに)を将つて対せん。」


   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、若し這裏に向つて対得して親切ならば、妨げず慶快なることを。其れ或いは未だ然らずんば、也た須らく一切處に眼を著くべし。

   頌に云く、
  路に達道の人に逢はば、
  語黙を将つて對せず。
  欄腮劈(らんせいへき)面に拳す、
  直下(じきげ)に會せば即ち會せよ。
    ◇                      ◇                     ◇

五祖法演禅師は云った、「路上で大悟徹底した人に出会った時には、言葉で対しても沈黙で対してもいけない。さて、そうだとすれば、どうのように応対すれば良いのだろうか?」


無門曰く

 もし語黙に拘泥しない境地にピタリと対することができれば、愉快この上ないことであろう。しかし、未だそのような境地が分からないならば、行住坐臥の一切時処に常に注意して修行しなければならない。


頌に曰く、

路で大悟徹底した人に出会った時には、言葉で対しても沈黙で対してもいけない。

これでも未だ分からないなら、顎や頬をさけるほどぶん殴れ。そうすれば、わかるものにはわかる。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、道で出会った人間が達道かどうかわからないときも同じ。

第三十七則・庭前柏樹

無門関第三十七則・庭前柏樹                               

 趙州因みに僧問ふ、如何なるか是れ祖師西来意。州云く、庭前の柏樹子。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、若し趙州の答処に向かつて見得して親切ならば、前に釈迦無く、後に弥勒無し。

   頌に云く、
  言、事を展ぶること無く、
  語、機に投ずず。
  言を承くる者は喪し、
  句に滞るものは迷う。
    ◇                      ◇                     ◇

趙州和尚に僧が問うた。「達磨大師がはるばる西からやって来た意図は何ですか ?」

趙州答えて云った。「庭の柏の樹」。


無門曰く

もし趙州の答えた処をはっきりと見抜くことができれば、釈迦牟尼仏や弥勒菩薩もいなくてかまわん。

頌に曰く、

この事ばかりは言葉で説明できないし、核心に触れることもできない。

言葉を聞いても見失うし、拘っても迷うだけだ。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、不知某甲作入叢林不見柏樹。漢文の作文は珍文漢文。

第三十八則・牛過窓櫺

無門関第三十八則・牛過窓櫺 

 

五祖云く、譬へば水牯牛の窓櫺を過ぐるが如き、頭(づ)角四蹄都て過ぎ了り、甚麼に因つてか尾巴過ぐることを得ざる。

 

   ◇                      ◇                     ◇

  無門云く、若し這裏に向つて顛倒にも一隻眼を著得し、一転語を下し得ば、以つて上四恩を報じ、下三有を資(たす)くべし。其れ或は未だ然らずんば、更に須く尾巴を照顧して始めて得べし。

   頌に云く、
  過ぎ去れば抗塹(きょうざん)に堕ち、
  回り来れば却つて壊らる。
  者些(しゃさ)の尾巴子、
  直(じき)に是れ甚だ奇怪なり。
    ◇                      ◇                     ◇

五祖法演が云った。「譬えば水牛が通り過ぎるのを窓越しに見ているようなものだ。頭、角、四つの脚全てが通り過ぎてしまっているのに、どういうわけで尻尾だけは通り過ぎないのだろうか ?」


無門曰く

若しこの事態に対して逆の方から、真理を見抜く眼で、核心を突く言葉を吐くことができれば、上は四恩に報い、下は迷いの衆生を救うことができるだろう。もし未だそこまでは到っていないならば、是非ともあの水牛の尻尾を見届けないといけないだろう。


頌に曰く、

うっかり通り過ぎれば、穴に落ち、回り道をしたらよけいにやられる。

この尻尾というものは、何ともはや奇怪(きっかい)なものだ。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、しっぽは図体の向こう側で見えなかったんだよ~。

第三十九則・雲門話墮

無門関第三十九則・雲門話墮


  雲門、因みに僧問ふ、「光明寂照遍河沙」。一句未だ絶せざるに、門遽かに曰く、「豈是れ張拙秀才の語にあらずや」。
  僧云く、「是」。
  門云く、「話墮せり」。
  後來、死心拈じて云く、「且く道へ、那裏か是れ者(こ)の僧話墮の處ぞ。

   ◇                      ◇                     ◇
 無門曰く、若し者裏に向つて、雲門の用處孤危、者の僧に因つてか甚話墮するを見得せば、人天の與に師と為るに堪へん。若し也た未だ明らめずんば、自救不了。

   頌に曰く
 急流に釣を垂る、 餌を貪る者は著く。
  口縫纔かに開けば、 性命喪却す。
    ◇                      ◇                     ◇

雲門禅師にある僧が尋ねた、「光明寂照遍河沙(こうみょうじゃくしょうへんがしゃ)」。

全部の詩句が終っていないのに、雲門は云った、「何じゃ、それは張拙秀才の詩の句じゃないのか?」。

僧 「はい、そうです」。

雲門 「落第だ!」。

後日、黄竜死心禅師はこの問答について、「何処にこの僧が話堕(落第)した処があるか、分かるかな?」と云った。


無門曰く

 もしこの問答に於いて、雲門の寄り付き難い機微、それにこの僧はどこで馬脚を出したかが分かれば、人天の師となるにことができるだろう。もし、それでも未だ分からないならば、自分さえも救えないだろう。


頌に曰く、

急流に向って釣り糸を垂れれば、さもしい魚が餌に飛びつく。

この魚と同じように、口を開いて飛びつけば忽ち釣り上げられて命を失うだろう。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、まだ終わっていませんよ。

第四十則・趯倒淨瓶

無門関第四十則・趯倒淨瓶


 潙山和尚、始め百丈の會中に在つて典座に充す。百丈將に大潙の主人を選ばんとす。乃ち請じて首座と同じく衆に對して下語して、出格の者は往くべしと。百丈遂に淨瓶を拈じて、地上に置いて、問を設けて云く、喚んで淨瓶と作すことを得ざれ、汝喚んで甚麼とか作さん。首座乃ち云く、喚んで木揬と作すべからざるなり。百丈却つて山に問ふ。山乃ち淨瓶を趯倒して去る。百丈笑つて云く、第一座、山子に輪却せり。因つて之に命じて開山と為す。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、潙山一期の勇、爭奈(いかん)せん百丈の圈匱を跳り出ざることを。檢點し將ち來れば、重きに便りして輕きに便せず。何が故ぞ聻(にい)。盤頭を脱得して鐵枷を擔起す。


   頌に曰く
 箍籬并に木杓をヨウ[風+易]下して、
  當陽の一突周遮をずつす。
  百丈の重關攔(さえぎ)れども住まらず、
  脚尖趯出して佛麻の如し。
    ◇                      ◇                     ◇

潙山霊祐禅師は、若い時、百丈懐海禅師の道場で炊事係の僧を務めていた。

丁度その頃百丈和尚は大潙山道場の住持を人選しようとしていた。

そこで、百丈は道場の修行僧達を集め、自己の悟境を述べさせ、実力のある者を選抜して住持に推薦しようとした。

百丈和尚はやにわに浄瓶を地上に置いて質問して云った、「これを浄瓶と呼んではならない。さあ、お前達はこれを何と呼ぶか?」。

この問いに首座(しゅそ)は、「まさか木片と呼ぶわけにもいきません」と答えた。

百丈は、次に潙山に向き直って「お前はどうだい?」と聞いた。

潙山は直ちに浄瓶を蹴飛ばすと出て行った。

この時百丈和尚は笑って、「首座は潙山にしてやられたな」と云った。

こうして潙山は大潙山の開山となったのである。


無門曰く

潙山霊祐はこうして一期の勇を振るって浄瓶を蹴飛ばし大潙山の開山となった。しかし、これで潙山は百丈の仕掛けた罠にはまってしまったよ。

よくよく見れば、彼は重い役目を選んで軽い役目を選ばなかったのだ。何故だろうか?

そら見ろ、彼は頭から鉢巻を取り去ってから、鉄の枷(かせ)を嵌めるようなことになったではないか。 


頌に曰く、

 潙山は笊(ざる)やしゃもじを放り出し、正面から浄瓶を蹴飛ばして百丈のへ理屈を突破した。

この自在の機微には百丈が設けた重関もさえぎることはできない。

かえって、潙山の足先から無数の活き仏が飛び出したわい。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー潙山にかわりて曰く、「飯の準備で忙しいのに浄瓶を勝手に持ち出しやがって、おまけに返してくれず浄瓶と呼んではいけないなんて言いやがる。名前なんてどうでもいいがこの忙しいのになんてことだ。返してくれない上に名前までないんじゃ使えない。こんなもん、もういらんわい!」

第四十一則・達磨安心

無門関第四十一則・達磨安心


 達磨面壁し、二祖雪に立ち臂を断つて云ふ、弟子心未だ安からず。乞ふ師、心を安んずよ。
  磨云く、心を将ち来れ、汝が與に安んぜん。
  祖云く、心を筧むるに、了(つい)に不可得。
  磨云く、汝が為に安心し竟(おわ)んぬ。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、欠歯の老胡、十万里の海を航して、特特として来る、謂つべし是れ風無きに波を起すと。末後に一箇の門人を説得するに、又却つて六根不具。[口+夷](いい)、謝三郎四字を知らず。

   頌に曰く、
  西来の直指、
  事は囑に因つて起る。
  叢林を橈聒(とうかつ)するは、
  元来是れれ爾。
    ◇                      ◇                     ◇

達磨が面壁して坐禅していた。二祖慧可は雪の中に立ち尽くし(自分の心をさがすため腕の中にないかと)臂を切り落として云った、

「私の心は未だ不安です。どうか師よ、安心させて下さい」。

達磨は云った、「心をここに持って来て示しなさい、そうしたらお前の為に安心させてやろう」。

二祖慧可は云った、「心を探しましたが、どうしても見つかりません」。

達磨は云った、「安心させてしまったぞ」。


無門曰く

歯抜けじいさんの達磨は、十万里の海を越えて西の国からわざわざやって来た。これはまるで風の無い所に波を起こしたようなものだ。

死ぬ前にようやく嗣法の門人を得たが、彼も又六根不具の男だった。やい、三郎め四字も知らないか。


頌に曰く、

西から来て「直指人心、見性成仏」の教えを伝えたばかりに、いろいろ事件が起きてしまう。禅寺でなにかごたごたするのも元はアンタだ、なんとかしろ。  
     ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、こころをさがすのに臂を切っても仕方がない。首を切るか頭を切るかだろ?あっ指でいいのか。

第四十二則・女子出定

無門関第四十二則・女子出定 


昔、因みに文殊(もんじゅ)、諸仏の集まる処に至って諸仏各々本処(ほんじょ)に還(かえ)るに値う。 惟だ一人の女人(にょにん)有って彼の仏座(ぶつざ)に近づいて三昧(さんまい)に入る。 

文殊乃ち仏に白して云く、何んぞ女人は佛座に近づくことを得て、我は得ざる。佛、文殊に告げたまはく、汝但だ此の女人を覚まして、三昧より起たしめて、汝自ら之に問へ。
  文殊、女人を遶(めぐ)ること三匝(そう)、指を鳴らすこと一下す、乃ち托して梵天に至つて其の神力を盡せども出だすこと能はず。
  世尊云く、假使(たとひ)百千の文殊も、亦此の女人の定(じょう)を出だすことを得ず。下方四十二億河沙の国土を過ぎて、罔明菩薩有り。能く此の女人の定を出ださん。
  須臾(しゅゆ)にして、罔明大士、地より湧出して世尊を礼拝す。世尊罔明に勅す。却つて女人の前に至つて指を鳴らすこと一下す。女人是に於て定より出づ。

  

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、釈迦老子、者(こ)の一場の雑劇を做す、小小に通ずず、且く道へ、文殊は是れ七仏の師、甚(なん)に因つてか女人の定を出だし得ざる。罔明は、初地の菩薩、甚としてか却つて出だし得る。若し者裏に向つて見得して親切ならば、業識忙忙なるも、那伽(ぎゃ)大定ならん。

   頌に云く、
  出得、不出得、
  渠(かれ)、儂(われ)自由を得たり。
  神頭并びに鬼面、
  敗闕風流に当る。
    ◇                      ◇                     ◇

昔、諸仏がブッダの処に集まった後、再びそれぞれの居場所に帰還して行く処に出会った。ところが、ただ一人の女だけはブッダ居る前で三昧(さんまい)に入り続けていた。

それを見て不思議に思った文殊(もんじゅ)菩薩がブッダに聞いた、「どうしてこの女はあなたの居る所に近づくことができて、私はできないのですか?」。 

ブッダは文殊に言った、「君がこの女を三昧より覚(さま)して自分でその理由を聞けばよい」。

そこで文殊は女の周りを三度回って、指をパチンと鳴らして、その女を手の上の載せて天上界に昇った。

そして神通力を尽くしたがその女を三昧から出すことができなかった。 

ブッダは云った、「たとえ10万人の文殊がかかってもこの女を三昧より出すことはできないだろう。

ここより下の方十二億河沙の無数の国土を過ぎた所に罔明菩薩という菩薩がいる。

彼ならばこの女性を三昧より出すことができるだろう」。

ブッダが言い終わるやいなや罔明菩薩が地中より湧き出るように出現してブッダを礼拝した。

ブッダが女を定より出すように命じると罔明菩薩は女の前に行って指をパチンと鳴らした。すると女はようやく三昧より出たのである。

 
無門曰く

釈迦老子、また何と言う田舎芝居を見せてくれるんだ。これは並み大抵のことではないよ。

それでは何か答えて見なさい、七仏の師と言われる文殊菩薩はどうして女を定より出すことができず、まだ修行の浅い罔明(もうみょう)菩薩の方が、かえって女を定より出すことがなぜできたのだろうか? 

若しこの処をはっきりと見抜くことができるならば、過去の悪業にも引きずられることなく、大竜三昧のような深い三昧に入ることができるだろう。


頌に曰く、

女人を定から出すことが出来るのも出来ないのも、自由自在。

神のお面と鬼の面を被った雑劇のようなもので、失敗もまた面白い。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、ムゥッ。

第四十三則・首山竹篦

無門関第四十三則・首山竹篦


首山和尚、竹箆を拈じて衆に示して云く、汝等諸人、若し喚んで竹箆と作さば則ち触る、喚んで竹箆と作さざれば則ち背く。汝諸人、且く道へ、喚んで甚麼とか作さん。

   ◇                      ◇                     ◇
 無門云く、喚んで竹箆と作さば則ち触る、喚んで竹箆と作さざれば則ち背く。有語することを得ず、無語なることを得ず。速かに道へ速かに道へ。

  頌に云く
竹箆を起して、
 殺活の令を行ず。
 背触交馳、
 仏祖も命を乞ふ。
    ◇                      ◇                     ◇

首山和尚は竹(しっ)箆(ぺい)を取り出して修行僧達に示して云った、「お前達、もしこれを竹箆と喚(よ)べば名前に捉われることになる。 竹箆と喚ばなければこれを否定することになる。 さあ、お前達、これを何と喚ぶか言ってみよ」。


無門曰く

もしこれを竹箆と喚(よ)べば名前に捉われることになる。竹箆と喚ばなければこれを否定することになる。 語ってもいけないし、黙ってもだめだ。さあ早く言え、早く言え。


頌に曰く、

首山和尚は竹箆を取り出して、生かすか殺すかの、逃れようない命令を出した。

否定も肯定もできない問題を前にして、さすがの仏祖も命乞いをするだろう。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、しっぺ返し。ピシーッ!命乞いなんてするものか。

第四十四則・芭蕉シュ[扌+主]杖

無門関第四十四則・芭蕉[柱]杖


芭蕉和尚、衆に示して云く、爾に[扌+主]杖子有らば、我れ爾に[扌+主]杖子を与えん。爾に[扌+主]杖子無くんば、我れ爾が[扌+主]杖子を奪わん。

   ◇                      ◇                     ◇
 無門曰く、扶けては斷橋の水を過ぎ、伴うては無月の村に歸る。若し喚んで[扌+主]杖と作さば、地獄に入ること箭(や)の如し。

   頌に曰く
 諸方深と淺と、
  都て掌握の中に在り。
  天を[扌+掌]ササへ并びに地を[扌+掌]ササへ、
  處に隨つて宗風を振う。
    ◇                      ◇                     ◇

芭蕉和尚は衆に示して云った、「お前達に杖が有ったならば、私はお前に杖を与えよう。お前に杖が無ければ、私はお前の杖を奪おう」


無門曰く

橋の無い川を渡る時には助けとなり、月の無い闇夜には村に帰る伴をする。若しこれを杖と喚(よ)ぶならば、箭(や)のように地獄に落ちるだろう。  


頌に曰く、

禅僧の境地の深浅は全て杖を握ったその手にあるのだ。

彼の杖は天地をささえて、随処にその実力を振るっている。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、芭蕉(俳人ではなく禅僧)はわかるやつはよくわかるし、わからんやつはますますわからんと言ってるだけだと思うんだが、無門は杖を竹べらにした。歩きにくかろう。

第四十五則・他是阿誰

無門関第四十五則・他是阿誰


 東山演師祖曰く、釈迦弥勒は、猶ほ是れ他の奴。且く道へ、他は是れ阿誰ぞ。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、若し也た他を見得して分暁ならば、譬へば十字街頭に親爺に撞見するが如くに相似て、更に別人に問うて是と不是を道ふことを(もち)ひず。

   頌に曰く、
  他の弓を挽くこと莫れ、
  他の馬に騎ること莫れ。
  他の非を弁ずること莫かれ、
  他の事を知ること莫れ。
    ◇                      ◇                     ◇

五祖山の法演禅師は云った。「釈迦や弥勒(みろく)といえども猶(なお)お彼の使用人(奴)に過ぎない。では彼とは一体誰のことだろうか?」


無門曰く

もし彼をはっきりと見抜くことができるならば、たとえば、賑やかな街の雑沓の中で自分の父親に出会ったようなもので、これが自分の父親であるかどうかを他人に聞く必要は無い。


頌に曰く、

他人の弓を挽(ひ)いてはならない。他人の馬に騎(の)ってはならない。
他人の非を言ってはならない。他人の事を知ってはならない。
    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、無門はここではアドラー。自分の課題と他者の課題を分離する。自分は他者の人生でなく自分の人生を生きる。だから十字街頭で出会うのも親爺という自分以外の人間ではなく、自分自身。釈迦の主人はシャカ本人、弥勒も同じ。どちらも自分自身。漱石の好きな父母未生以前の己本来の面目ってやつかな。でも漱石は自分じゃないし、無門もアドラーじゃない。

第四十六則・竿頭進歩

無門関第四十六則・竿頭進歩


石霜和尚云く、百尺竿頭如何んが歩を進めん。
  又た古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も未だ真と為さず。百尺竿頭須らく歩を進むべし、十方世界に全身を現ず。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、歩を進め得、身を翻へし得ば、更に何れの処を嫌うてか尊と称せざらん。然も是の如くなりと雖も、且く道へ、百尺竿頭、如何んが歩を進めん。嗄(さ)。

   頌に曰く、
  頂門の眼を瞎却して、
  錯まつて定盤星を認む。
  身を棄て能く命を捨て、
  一盲衆盲を引く。
    ◇                      ◇                     ◇

石霜(せきそう)和尚が云った、「百尺の竿頭に在る時、どのようにして更に一歩を進めたらよいだろうか?」

又古徳は云った、「百尺竿頭に坐りこんでいる人は、一応そこまでも行ったにしても未だ真の境地ではない。百尺竿頭からさらに一歩を進めて十方世界に自己の全身を発現すべきだ。」


無門曰く

百尺竿頭から一歩を進めて十方世界に全身を発現できたならば、ここは場所が良くないとか尊くないと言って嫌うようなことがあろうか。それはそれとして、百尺竿頭からどのよにして一歩を進めたら良いか言って見よ。ああ。


頌に曰く、

頂門(ちょうもん)の眼(まなこ)を失えば無用のものに眼がくらむ。

身命を投げ捨ててこそ、迷える衆生を導く人となるだろう。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、ヨッホッ。

第四十七則・兜率三關

無門関第四十七則・兜率三關


 兜率悦和尚、三関を設けて学者に問ふ、発草参玄は只見性を図る。即今上人の性甚(なん)の処にか在る。自性を識得すれば方に生死を脱す。眼光落つる時、作麼生(そもさん)か脱せん。生死を脱得すれば便ち去處を知る。四大分離して甚(なん)の処に向つてか去る。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門云く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以つて随所に士と作り、縁に遇うては宗に即すべし。其れ或は未だ然らずんば、麁餐は飽き易く、細嚼は飢え難し。

   頌に曰く、
  一念普く観ず無量劫、
  無量劫の事、即ち如(にょ)今。
  如今箇(こ)の一念を覩破すれば、
  如今覩る底(てい)の人を覩破す。
    ◇                      ◇                     ◇

兜率従悦和尚は三つの関門を設けて参禅修行者に問うた、

「諸方を遍歴し明眼の師に参じて宗旨を究める目的は只だいかにして見性するかにある。

さあ即今あなたの自性はどこに在るか?」

「自性を明らかにすれば、直ちに生死を超脱することができる。

ではあなたの眼光が落ち、死ぬ時、どのように死んだらよいだろうか?」

「生死を超越できれば死後の行き先も分かる。四大分離して死んだ時あなたは何処に向って去るのだろうか?」

無門曰く

若しこれらの三の問いに対して核心をつく適切な言葉を言うことができれば、何処に居ても主体性を発揮でき、場には支配されないだろう。

もし未だそのようにはなれないならば、飯を噛まずに飲み込むから腹が減る、良く咀嚼して食べれば飢えるようなことはないと知りなさい。  


頌に曰く、

一念で無眼の時間を観ずれば、無眼の時間は今にある。

今この一念を見破れば、今その一念を観ている人を見破ることができる。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、ココ、ガクッ、スッ。

第四十八則・乾峰一路

無門関第四十八則・乾峰一路


 乾峰和尚、因みに僧問ふ、「十方薄伽(ばぎゃ)梵、一路涅槃門。未審(いぶかし)路頭甚麼(なん)の処にか在る。」
  峰、[扌+主]シュ杖を念起して、劃一劃して云く、者裏に在り。
  後、僧雲門に請(しん)益す。門、扇子を拈起して云く、扇子[𧾷+孛]ボッ跳して三十三天に上つて、帝釈の鼻孔に築著す。東海の鯉魚、打つこと一棒すれば、雨、盆を傾くに似たり。

   ◇                      ◇                     ◇
  無門曰く、一人は深深たる海底に向つて行行き、簸土揚塵す、一人は高高たる山頂に於いて立ち、白浪滔天す。把定(じょう)放行(ぎょう)、各(おのおの)一隻手を出して、宗乗を扶竪す。大いに両箇の馳子相撞著するに似たり。世上応(まさ)に直(じき)底の人無かるべし。正眼に観来たれば、二大老、總に未だ路頭を識らざることあり。

   頌に曰く、
  未だ歩を挙せざる時先ず已に到り、
  未だ舌を動かさざる時先ず説き了る。
  直饒(たとひ)著著機先に在るも、
  更に須らく向上の竅あることを知るべし。

    ◇                      ◇                     ◇

ある時、僧が越州乾峰和尚に聞いた、「楞厳経には『十方の諸仏は、一つの路をと通って悟りに入られた』とあります。

一体その路は何処にあるのですか?」。

乾峰和尚は、シュ杖を持ち上げて、空中に一線を劃して云いった、「ここに在るじゃないか?」。

しかし、僧はこの返答の意味が分からなかった。僧は、後になって、雲門禅師の処に行って同じ質問をして教えを乞うた。

雲門は扇子を持ち上げて云った、「それはあたかも扇子が三十三天に跳び上って、帝釈天の鼻に当たって突き上げるようなものだ。

また池で泳いでいる鯉を棒で一打すれば、お盆をひっくり返したように水が飛び散るのに似ている」。


無門曰く

一人は深深とした海底に入って、砂塵を上げ、一人は高く聳える山頂に立って、海の水が天に届くほど溢れさせている。

一人が引き締めると、もう一人は緩める。こうして互いに片手を出し合って禅宗を支えているわい。まるで二頭の駱駝が頭をつき合わせているようだ。

世間ではこれに立ち向かって行くだけの力のある人はいないようだ。しかし、この無門が正眼(しょうげん)で見れば、乾峰と雲門の二大老は、未だ本当の「悟りの一筋路」を知らないようだ。

頌に曰く、

足を運ばないのに、もう着いている。

未だ舌を動かしていないのに、もう説き了(おわ)っている

たとい一手一手と機先を制して打っても、更に須らく向上の 経穴あることを知るべし。

    ◇                      ◇                     ◇

ぐっちー曰く、合掌礼拝。

無門関後序

無門関後序


 從上佛祖の垂示機縁、據に款つて案に結す、初めより剩語無し。掲翻を腦蓋し、眼睛を露出して、肯て諸人直下に承當して、他に従つて覓ざらんことを要す。若し是れ通方の上士ならば、纔かに舉著するを聞いて便ち落處を知らん。了に門戸の入るべき無く、亦階級の昇るべき無し。掉を臂つて關を度つて、關吏を問はず。豈見ずや玄沙の道ふことを、無門は解脱之門、無意は道人之意と。又白雲道ふ、明明として道を知る、只是れ者箇なんとしてか透不過なると。恁麼の説話話も、也た是れ赤土に牛爾をぬる。若無門關を透得せば、早く是れ無門を鈍置せん。若し無門關を透り得ずんば、亦乃ち自己に辜負せん。所謂、涅槃心は曉らめ易く、差別智は明らめ難し。差別智を明らめ得ば、家國自ら安寧ならん。

  時に紹定改元 解制前五日(西暦一二二八年 七月十日)
 楊岐八世の孫 無門比丘慧開 謹みて識す。
  無門關卷終。

    ◇                      ◇                     ◇


 このように釈尊や諸祖師の示された教えを、おりおりに公案にしたもので、何も付け足していない。脳天を割って、目玉もみせたし、どうかみんな、すなおに受け入れわかってほしい。あっちこっちほかの所に答えをさがさないでくれ。

 道に通じたすぐれたひとなら、話をきいただけですぐ答えがわかる。なにも入り口に門戸なんかないし、段々をのぼるものでもない。大手で通りぬけ、番人などかまわぬ。


 玄沙師備禅師の言ったことを知らないのか?「無門は解脱の門、心に留めないのが達人の悟り」と。白雲守端禅師も、「まったくはっきりと明らかな道なのに、このところがどうして通れないのか?」と。


 こうした説話ばなしも、赤土に牛乳のくどさ。無門の関所が通れたら、無門なんか置いてきぼり。無門の関所が通れないようでは、自分のふがいなさを知れ。悟りを明らかにするのは易しいが、あれこれの細かい分別はむずかしいもの。あれこれの細かい分別がわかれば、家も社会も平和になる。

  時に紹定元年(一二二八) 七月十日
  楊岐から八世の孫 無門こと僧慧開しるす。
  無門關卷終。